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公開: 2026-07-17

コラム:史実で見る「遠縁の男系男子養子」の実際――継体・光仁・後花園・光格の4例と、藤原氏の外戚政治との対比

version 0.3(草案)/ 2026-07-17

出典は文末にまとめている。学術論文ではなく百科事典・大学リポジトリ・ 新聞社の解説記事・オピニオン記事レベルの出典が中心であり、一次資料 (『日本書紀』等の原文、内閣官房報告書PDFの当該箇所を除く)での裏取り は今後の課題である。本コラムは評価を下さず、確認できた事実のみを 時系列で並べる。皇室典範改正2026のコラム で扱った「旧宮家養子案」について、「歴史上、遠縁の男系男子を養子・ 入嗣というかたちで皇位に迎えた例はどれだけあったのか」という論点を 切り出して詳しく扱う。藤原氏の外戚政治(平清盛・豊臣秀吉を含む)、 光格天皇と閑院宮家の概要、旧宮家との血縁の隔たり(約600年・20世代 以上)については三笠宮家分裂のコラム の「歴史的に見て、これは『異例』なのか『繰り返し』なのか」の節で 既に扱っており、本コラムはそこでは扱われていない継体天皇・光仁 天皇・後花園天皇の3例と、旧宮家養子案の直接の根拠である2021年 政府報告書が実際に引用した先例(徳川将軍家)という2点を中心に 掘り下げる。重複する基礎情報は最小限にとどめ、詳細は同コラムに 譲る。


なぜこの切り口か

藤原氏は、飛鳥時代から平安時代にかけて、自分の娘を天皇や皇太子に 嫁がせ、生まれた子を次の天皇にすることで実権を握るという戦略を 繰り返した(外戚政治)。これは、天皇の血筋(男系)を天皇家の中に 保ったまま、母方の地位を独占するという手法である。

これに対し、2026年の皇室典範改正で焦点となった「旧宮家養子案」は、 方向がまったく逆である。天皇家の外側にいる、血縁の遠い男系男子を、 養子というかたちで天皇家の内側に迎え入れる。この「遠縁の男系男子を 養子に迎える」という手法が、歴史の中でどれだけあったのかを、確認 できる限り整理する。

時系列:遠縁の男系男子が皇位を継いだ4つの事例

天皇即位年直前の状況血縁の遠さ
継体天皇(第26代)507年武烈天皇が後嗣なく崩御。大伴金村らが越前から擁立応神天皇5世の孫とされる
光仁天皇(第49代)770年称徳天皇が後継者を指名しないまま崩御。藤原永手・百川らが擁立天智天皇の孫(天武系から見て傍系)
後花園天皇(第102代)1428年称光天皇が実子なく危篤・崩御。伏見宮家から迎えられる共通の祖先・光厳天皇から8親等(Wikipedia表記)
光格天皇(第119代)1780年後桃園天皇が男子の跡継ぎなく22歳で急死。閑院宮家から迎えられる共通の祖先・東山天皇から3〜4世代
(参考)2026年改正案未定旧11宮家出身の男系男子を養子として皇族に迎える制度が新設伏見宮家からの分岐(1351年)から20〜21世代(前掲)

継体天皇:即位後20年、大和に入れなかった大王

506年、第25代・武烈天皇が後継者を残さないまま崩御した。大連・ 大伴金村は、いったん仲哀天皇5世の孫・倭彦王を丹波から迎えようと したが失敗し、次に越前にいた男大迹王(おおどのおおきみ)――応神 天皇5世の孫とされる――を擁立、507年に河内国樟葉宮で即位させた。 これが継体天皇である。

即位後、継体天皇はすぐには大和に入らず、樟葉宮→筒城宮(511年)→ 弟国宮(518年)→磐余玉穂宮(526年)と遷都を重ね、大和入りまでに 約20年を要したと伝わる。当初、大和内部に継体の即位を認めない勢力 があったことをうかがわせる説がある一方、段階的に支配を固めた計画的 な過程だったとする見方もある。

継体天皇は即位にあたり、仁賢天皇の皇女で武烈天皇の姉にあたる **手白香皇女たしらかのひめみこ**を皇后に迎えた。 前皇統の血を引く皇女との婚姻により、 傍系出身という弱みを補強したとされる。応神天皇から継体天皇までの 血縁の遠さと、手白香皇女との婚姻関係は、次の系図のとおりである。

第15代応神天皇200〜310第29代欽明天皇509〜571第26代継体天皇485〜531手白香皇女450〜?彦主人王弘斐王大大迹王稚野毛二派皇子

ドラッグで移動、ホイール/ピンチで拡大縮小、人物をクリックすると詳細ページに移動します。 線の色・種類の凡例は系図ページを参照。

この即位を、歴史学者・水野祐が1952年に提唱した三王朝交替説 (応神朝と継体朝の間で皇統が実質的に別系統に入れ替わったとする説) と結びつける議論がある。ただし、継体天皇が前政権の支配機構をそのまま 継承したこと、前王家の皇女を妃としたこと、武力による交替を示す考古学 的証拠がないことなどから、現在この説を支持する研究者は多くなく、 継体天皇を応神系の傍系王族とみる「継体天皇王族説」が有力とされる。 なお高森明勅氏は、継体天皇の即位についてむしろ「男系の血筋よりも、 手白香皇女という直系の女性(女系)が正統性の根拠として重んじられた 例」だと論じている(2022年)。

光仁天皇:藤原氏が擁立し、その皇后・皇太子は廃された

神護景雲4年(770年)8月、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)が、後継者を 正式に指名しないまま53歳で崩御した。称徳天皇は天武天皇の血を引く 最後の直系(天武→草壁皇子→文武→聖武→称徳)であり、この時点で 天武系の男系男子継承者は事実上絶えていた。

崩御当日、左大臣・藤原永手を中心に、右大臣・吉備真備、参議・藤原 宿奈麻呂(百川)らが後継を協議した。天武系の文室浄三・大市を推す 吉備真備に対し、永手・百川らは天智天皇の孫にあたる 白壁王しらかべのおう(当時62歳) を推し切り、白壁王が即位して光仁天皇となった。光仁天皇は後年、 「百川がいなければ帝位に即けなかった」と述べたと伝わる。

光仁天皇は即位に伴い、聖武天皇の娘である 井上内親王いのえないしんのう (「いがみないしんのう」という読みもある)を皇后に迎え、その子・ 他戸親王おさべしんのうを皇太子とした。天智系と 天武系・聖武系の血を結びつけることで正統性を補強したとされる。 しかし宝亀3年(772年)、井上内親王は光仁天皇への呪詛容疑で皇后を 廃され、他戸親王も皇太子を 廃された。母子は幽閉され、宝亀6年(775年)、同日に死去している (毒殺説もあるが確定した史料はない)。翌年、山部親王(のちの桓武 天皇)が立太子した。

この光仁天皇の即位は、複数の解説記事で「天武系から天智系への皇統 転換」と評されている。

後花園天皇:「養子」ではなく「猶子」という当時の呼び方

伏見宮家は応永16年(1409年)、北朝第3代・崇光天皇の第一皇子・ 栄仁親王を初代当主として創設された宮家である。南北朝合一(1392年) 後、皇位は崇光天皇の弟の子孫(後光厳院流)に継承されており、伏見宮 系統は皇統の傍流として経済的にも困窮しながら存続した。

正長元年(1428年)、第101代・称光天皇が実子のないまま28歳で崩御 した。同母弟の小川宮も1425年に早世していたため、後小松上皇は 将軍・足利義持と協議し、 伏見宮貞成親王ふしみのみやさだふさしんのう を後継候補としたが、称光天皇本人の反発で貞成は出家した。称光天皇が 再び危篤になった同年7月、将軍・足利義教の指示で、貞成親王の子・ 彦仁王ひこひとおうが迎えられた。

彦仁王は正長元年7月17日、「後小松上皇」の猶子となり、7月20日 の称光天皇崩御を受けて践祚、後花園天皇となった。当時の史料・辞典 類では一貫して「養子」ではなく「猶子」という語が使われており、 「養子」は現代の平易な言い換えにとどまる。後花園天皇は、称光天皇 のように前皇統の女性と結婚して血を取り込んだわけではなく、あくまで 後小松上皇の猶子となるという手続きのみで即位した点が、継体・光仁・ 光格の各例とは異なる。

後花園天皇と称光天皇の共通の祖先は、北朝第2代・光厳天皇である (光厳→崇光→栄仁親王→貞成親王→彦仁王〔後花園〕、光厳→後光厳→ 後円融→後小松→称光、のそれぞれ4世代目)。Wikipediaの「後花園天皇」 記事は、この即位を「先帝とは8親等以上離れた続柄での皇位継承は (称徳天皇→光仁天皇以来)658年ぶり」と説明している。

光格天皇:新井白石が建言した「予備」の宮家から

閑院宮家は宝永7年(1710年)、東山天皇の第六皇子・直仁親王を初代 として創設が決まった宮家である。将軍・徳川家宣への新井白石の建言 によるとされ、徳川将軍家で世継ぎ断絶の危機が続いたこと、朝廷側でも 過去に継承候補の近親男子がほぼ出家していて紛糾した先例があった ことが背景として挙げられている。ただし、閑院宮家の創設目的として 「皇統の男系の予備」という趣旨が当時どこまで明文化されていたかは、 今回の調査で一次史料までは確認できていない。

安永8年(1779年)、第118代・後桃園天皇が、男子の跡継ぎを残さない まま(実子は欣子内親王よしこないしんのうのみ) 22歳で急死した。 閑院宮典仁親王かんいんのみやすけひとしんのうの 第六王子・祐宮(当時9歳)が、後桃園天皇の養子として儲君に 治定され、後桃園天皇の崩御後に践祚、光格天皇となった。光格天皇は のちに、後桃園天皇の娘・欣子内親王を皇后に迎えている(内親王の 中宮立后としては約450年ぶりとされる)。

光格天皇と後桃園天皇は、共通の祖先である東山天皇からそれぞれ3世代 ・4世代下にあたる。継体・光仁・後花園と比べると、共通の祖先までの 距離ははるかに近い。光格天皇はのちに、実父・典仁親王への太上天皇号 宣下を幕府に求めて老中・松平定信と対立した「尊号一件」で知られ、 新嘗祭の再興など朝儀の復興にも積極的だったとされる。


パターンの整理:多くは「前皇統の女性」との結婚で正統性を補強した

4つの事例を並べると、共通点と相違点が見えてくる。

  • 継体天皇・光仁天皇・光格天皇の3例は、即位にあたって前皇統の血を 引く女性を皇后(または将来の皇后)に迎えることで、傍系出身と いう弱みを補強している(継体→手白香皇女、光仁→井上内親王、 光格→欣子内親王)。これは、男系の血筋だけでなく、前皇統の女性を 介した血縁(女系的な要素)もあわせて正統性の根拠とされてきたことを 示す。
  • 後花園天皇のみ、前皇統の女性との結婚を伴わず、「猶子」という手続き のみで即位している。
  • 光仁天皇の例では、正統性補強のための婚姻(井上内親王立后)が、 その後の廃后・廃太子という深刻な政治事件につながっている。
  • 血縁の遠さは事例ごとに大きく異なり、光格天皇(東山天皇から3〜4 世代)がもっとも近く、後花園天皇(共通の祖先から8親等)、継体 天皇(応神天皇5世の孫)がそれに続く。2026年改正案の旧宮家候補 (伏見宮家からの分岐〔1351年〕から20〜21世代)は、これら過去の 4例のいずれよりも遠い血縁である。

藤原氏の外戚政治との対比

藤原氏の外戚政治(藤原不比等・良房・基経・道長)、平清盛、豊臣秀吉 による同種の手法の詳細は、三笠宮家分裂のコラム の「外戚政治は、繰り返し起きてきた」節で扱っているため、ここでは 繰り返さない。要点だけ述べると、外戚政治の構造は、天皇の男系の 血筋を皇室の中にそのまま維持しつつ、母方(外戚)の地位を独占する ことで摂政・関白として実権を握る、というものである。天皇の座 そのものを奪うのではなく、天皇家の外側から嫁を送り込んで実権を 握るという点で、「天皇家の外側にいる遠縁の男系男子を養子として 迎え入れる」旧宮家養子案とは、方向性が正反対である。

この対比は、現代の議論でも実際に言及されている。中道改革連合・ 野田佳彦氏の「藤原道長」発言(2026年6月22日)、政治学者・御厨貴氏 が『文藝春秋』7月号で「養子が取られたら麻生さんが天皇の外戚に なり、藤原氏のようになる」と述べたとされる件は、いずれも 三笠宮家分裂のコラムで詳しく 扱っている。ただし、これらはリスクを指摘する比喩的な発言であり、 外戚政治と旧宮家養子案の「目的の同一性」を学術的に論じたものでは ない点には注意が必要である。

政府の2021年報告書が引用した先例は、皇室ではなく「徳川将軍家」

旧宮家養子案の直接の根拠となった、内閣官房「皇位継承に関する有識者 会議」報告書(2021年12月22日)を一次資料として確認したところ、 「皇族が養子を迎えることを可能とする」という提言の脚注に、次の 記述がある。

例えば、徳川家は、征夷大将軍全15代のうち6代が先代の実子では なく、徳川家康の血をひく子孫が後を継いでいる。家康の血をひいて いることが重視されたものと考えられ、例えば、第10代家治は、5親等 離れた家斉を養子として後を継がせている。

つまり、この報告書が「養子」という手法の先例として明示的に挙げて いるのは徳川将軍家(江戸幕府)であり、本コラムで見た継体天皇・ 光仁天皇・後花園天皇・光格天皇という皇室自身の史実には、報告書 本文中で一度も言及がない(「継体」「光仁」「後花園」「伏見宮」 「光格」のいずれの語も報告書本文に見当たらない)。

皇室にも遠縁の男系男子を迎えた実例が複数あるにもかかわらず、政府の 提言が武家(将軍家)の家督相続を先例として引用し、皇室自身の先例に 触れていない理由は、報告書からは読み取れない。本コラムはこの点に ついて評価を下さないが、事実関係として記録しておく。

高市首相が答弁で挙げた「32親等の養子」――旧皇室典範より前の宮家内養子

2026-07-17の参院予算委員会で、旧宮家養子案への批判に対し、高市 早苗首相は「過去に、122代明治天皇の御代でございますが、天皇と 32親等の隔たりのある皇族たる男系男子が養子になられた例がある」と 答弁した。継体・光仁・後花園・光格という本コラムの4先例は、いずれも 「即位した(または即位に準ずる形で皇位継承資格を得た)遠縁の男系 男子」だが、明治期にも遠縁の養子の実例自体はある。

中道改革連合・辻元清美氏はSNS上で、宮内庁に確認したところ該当する のは次の2例だと説明したとされる(本コラムは辻元氏の発信を出発点に、 それぞれ独立してWikipediaで確認できる範囲の事実を記載する。宮内庁 の公式発表そのものへは未到達)。

  • 明治7年(1874年): 山階宮晃親王の王子・菊麿王(明治天皇から 32親等)が梨本宮守脩親王の養子となり梨本宮を相続した。菊麿王は その後1885年に山階宮へ復籍し、晃親王の継嗣となっている。
  • 明治16年(1883年): 華頂宮博経親王の王子・博厚王(同じく 32親等)が明治天皇の猶子となり親王宣下を受けたが、同日 ジフテリアにより8歳で薨去した。

いずれも独立に確認できる史実である。ただし辻元氏は博厚王の縁組も 「養子」としているが、Wikipedia「華頂宮博厚親王」の記載では 「猶子」であり、前述の後花園天皇の即位と同様、当時「養子」と 「猶子」が区別されていた可能性がある。

この2例には、本コラムで見た4先例と異なる点が2つある。(1) いずれも 1889年(明治22年)の旧皇室典範制定より前の事例であり、制定後は こうした宮家内の養子・親王宣下は廃止された。(2) いずれも宮家の 存続(梨本宮家の相続)や親王の身位(親王宣下)に関するもので、 皇位継承権そのものとは直接関係のない養子・猶子だった。継体・ 光仁・後花園・光格の4例が、いずれも皇位そのものを継ぐための養子 (または猶子)だったのとは性格が異なる。

旧皇室典範が養子を禁じた趣旨について、伊藤博文は『皇室典範義解』 で「養子を為すことを禁ずるは、宗系紊乱の門を塞ぐなり」と述べている。 この一次資料は、内閣官房「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に 対する附帯決議」に関する有識者会議第4回議事録(2021年5月10日、 PDFを直接ダウンロードし本文をテキスト抽出して確認)でも引用が 確認できる。同会議で意見陳述した元最高裁判事・岡部喜代子氏は、 この伊藤博文の趣旨が現行皇室典範9条(養子禁止規定)にも通じて いるとし、「世襲という人の行為の入り込む余地のない原則で皇位継承 を定めようとしているところに、人為的な親子関係が入り込んでくる とき、様々な人の思惑などがどうしても入ってきて、紛争の種になる ということも考えられる」と述べている。

高市首相が挙げた実例が、辻元氏の特定した2例と一致するかどうかは、 本コラムでは確認できていない(判定しない)。ただし、旧皇室典範 制定前の宮家内養子・親王宣下と、2026年改正案が新設する皇位継承権 を伴う養子縁組とが、性格の異なる制度である可能性がある点は、事実 関係として記録しておく。参院予算委員会でのやり取りの詳細は 皇室典範改正2026のコラムを参照。


まとめ

(1) 歴史上、天皇家の外側にいる遠縁の男系男子が皇位を継いだ確認 できる事例は、継体天皇(507年、応神天皇5世の孫)・光仁天皇 (770年、天智天皇の孫)・後花園天皇(1428年、伏見宮家、共通の 祖先から8親等)・光格天皇(1780年、閑院宮家、共通の祖先から3〜4 世代)の4例である。(2) このうち3例(継体・光仁・光格)は、前皇統 の血を引く女性を皇后に迎えることで正統性を補強しており、後花園 天皇のみ「猶子」という手続きのみで即位した。(3) 血縁の遠さは 事例ごとに異なるが、2026年改正案の旧宮家候補(分岐から20〜21世代) は、これら過去の4例のいずれよりも遠い。(4) 藤原氏の外戚政治(母方 の地位独占による実権掌握)は、天皇家の外から男系男子を迎え入れる 旧宮家養子案とは方向性が正反対の戦略であり、この対比は野田佳彦氏 ・御厨貴氏の発言(いずれも三笠宮家分裂のコラム で詳述)でも言及されている。(5) 旧宮家養子案の根拠となった2021年 政府報告書は、養子という手法の先例として徳川将軍家(家治→家斉、 5親等)を挙げており、皇室自身の史実(継体・光仁・後花園・光格) には報告書本文中で言及していない。(6) 2026-07-17の参院予算委員会 で、高市首相は「明治天皇の代に32親等の養子の例がある」と答弁した。 辻元清美氏の発信によれば該当するのは菊麿王(1874年、梨本宮守脩親王 の養子)・博厚王(1883年、明治天皇の猶子)の2例で、いずれも旧皇室 典範制定(1889年)より前かつ皇位継承権とは直接関係のない宮家内の 養子・猶子であり、継体・光仁・後花園・光格の4例(皇位そのものを 継ぐための養子・猶子)とは性格が異なる可能性がある。旧皇室典範が 養子を禁じた趣旨(伊藤博文『皇室典範義解』「宗系紊乱の門を塞ぐ」) は、2021年有識者会議で岡部喜代子氏(元最高裁判事)も引用している。


出典

出典は百科事典・大学リポジトリ・新聞社の解説記事・オピニオン記事が 中心で、学術論文そのものへの到達は一部にとどまる。内閣官房報告書 (2021年12月22日、2021年5月10日議事録)については、PDFを直接 ダウンロードし本文をテキスト抽出した上で該当箇所を確認した一次 資料である。特に『看聞日記』(貞成親王自筆)原文での後花園天皇即位 の経緯、閑院宮家創設の目的が当時どこまで明文化されていたか、 藤原氏の外戚政治と旧宮家養子案を正面から比較した学術的な言及の 有無、辻元清美氏が伝える宮内庁確認内容そのものの一次資料での 裏取りについては、一次資料・学術文献による確認を今後さらに 進めていく。