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公開: 2026-07-11

コラム:歴代から消えた「第十五代」――神功皇后

version 0.2(草案)/ 2026-07-13

出典は文末にまとめている。学術論文ではなく百科事典・公的機関の解説 ページレベルの出典が中心であり、一次資料(『日本書紀』原文、皇統譜令 原文等)での裏取りは今後の課題である。本コラムは評価を下さず、確認 できた事実のみを述べる。docs/DESIGN.md §1.5で挙げた 「126代という数字を揺るがす4要因」のうち、神功皇后の歴代からの除外に ついて詳しく扱う。


『日本書紀』の中で、天皇と同じ扱いを受けた人物

神功皇后は、第14代仲哀天皇の皇后である。仲哀天皇が急死した後、 お腹に応神天皇となる子を宿したまま朝鮮半島への遠征(三韓征伐)を 行い、帰国後、応神天皇が成長して即位するまでの間、政治を執り 行ったとされる人物である。

『日本書紀』における神功皇后の扱いは特別である。彼女は正式には 即位したとは記されていないにもかかわらず、他の天皇と同じように 独立した巻(神功皇后紀)が立てられている。しかも、その治世は 「摂政元年」から「摂政六十九年」まで、天皇の在位年数と同じ形式で数えられている。西暦に換算すると201年から269年、実に69年間に およぶ。この構成そのものが、後世「彼女も歴代の一人ではないか」と みなされる土台になった。

一部の史書では「第十五代」

こうした特別な扱いを反映してか、江戸時代以前の一部の史書・系図では、 仲哀天皇(第14代)と応神天皇(現在の数え方では第15代)の間に神功 皇后を挟み込み、彼女を第15代として数え、応神天皇を第16代にずらす 数え方があった。

卑弥呼と同一視された時代

神功皇后をめぐるもう一つの重要な論点が、中国の史書『魏志』倭人伝に 登場する女王・卑弥呼との関係である。『日本書紀』の神功皇后紀には、 実際に『魏志』倭人伝からの引用が含まれており、神功皇后の治世年代を、 魏に使者を送った「倭の女王」の記事と重なるように意図的に配置して いると指摘されている。この構成から、神功皇后を卑弥呼(あるいはその 後継者とされる壹與)になぞらえる説が、古くから唱えられてきた。

ただし、両者には無視できない違いもある。卑弥呼は夫を持たず子もなく、 宮中にこもって神託を受ける存在だったとされるのに対し、神功皇后には 夫(仲哀天皇)と子(応神天皇)がおり、外交・軍事に自ら積極的に関わる 行動的な人物として描かれている。同一人物とみなすことには、性格の 面でも年代の面でも整合しない部分が指摘されている。

明治の紙幣の「顔」になった皇后

神功皇后が最も広く「国民的な顔」になったのは、皮肉にも歴代天皇から 除外される前、明治の半ばのことである。1881年(明治14年)2月に発行が 始まった「改造紙幣」では、一円券以上の肖像に神功皇后が採用された。 図案を手がけたのはイタリア人技師エドアルド・キヨッソーネで、 古い肖像画や彫刻を参考にしつつ、実際には紙幣局(現在の国立印刷局)の 女性職員をモデルに創作したとされる。ただし出来上がった顔立ちは西洋 人女性風になっており、当時から指摘があった。この紙幣は「神功皇后 札」として親しまれ、明治から大正にかけて長く流通した。

天皇の肖像を紙幣に使うことは畏れ多いとされていた当時、神功皇后が 「日本最初の肖像入り紙幣の顔」に選ばれたという事実は、彼女がこの 時点でいかに権威ある存在として扱われていたかを物語っている。

1926年、正式に歴代から除外される

しかし、それから半世紀もしないうちに状況は変わる。大正15年(1926年) 10月、皇統譜令に基づく皇統譜の整備により、神功皇后は歴代天皇 から正式に除外された。以後、彼女は「応神天皇の摂政」という位置づけに 一本化され、現在に至る。

興味深いことに、この整理が行われたのとほぼ同じ時期に、明治3年 (1870年)には逆に、弘文天皇・淳仁天皇・仲恭天皇という、長く廃位・ 非業の死などで歴代から外れていた3人の天皇が、明治天皇によってまとめて 歴代に加えられている。神功皇后の除外(1926年)と、この3人の追加 (1870年)は、方向は逆だが、いずれも近代国家が「歴代天皇とは何か」を 初めて明文のルールで確定させる過程で起きた出来事である。

なぜ除外されたのか:公式説明と、もう一つの見方

公式に説明される除外の理由は、性別ではなく即位の儀を経ていない という形式的な理由である。『日本書紀』は一貫して神功皇后を「摂政」 として記述しており、正式な即位を記す記事がない。約69年の統治期間 そのものより、即位の儀という手続きの有無で判定されている、という 説明である。

ただし、まさに同じ1926年10月21日、南朝の長慶天皇(第98代)が 「皇統加列の詔書」によって新たに歴代に加えられている。こちらは 大正年間に発見された史料(武田祐吉が1916年に発見した『耕雲千首』の 奥書)によって在位が実証されたという、明確な新証拠に基づく追加 だった。つまり1926年10月は、政府が皇統譜を最終的に確定させた時期 であり、そこで「新証拠のある男性天皇は加える」「即位の記事がない 女性の摂政は外す」という判断が、同じ月に行われたことになる。

これが判定基準の一貫した適用の結果なのか、それとも男系男子の原則を より徹底させる意図が働いた結果なのかについては、見方が分かれる。 一部の論者は、三韓征伐などの事績にかかわらず「皇后なのに天皇だった という前例を認めるわけにはいかなかったのではないか」という見方を 示している。一方で、男系男子の原則自体は1889年の皇室典範で既に 法制化されており、神功皇后の除外はその37年後にあたる。原則を新たに 「作る」ための除外というより、既存の原則に記録を「整合させる」 過程だった、という見方も成り立つ。本コラムはどちらが正しいかを 判定しない。


まとめ

神功皇后は、(1)『日本書紀』では天皇に準じる特別な扱いを受け、 (2)一部の史書では実際に第15代として数えられ、(3)中国の史書との 関連で卑弥呼と同一視する説も生まれ、(4)明治の紙幣の肖像に採用され 広く国民に知られる存在になった。しかし(5)大正15年(1926年)の 皇統譜令によって、最終的には歴代天皇から正式に除外され、摂政という 位置づけに整理された。(6)公式の除外理由は「即位の儀を経ていない」 という形式的なものだが、同じ1926年10月、新証拠に基づき長慶天皇が 新たに歴代に加えられた事実と重ね合わせると、男系男子の原則を徹底 させる意図が働いた可能性を指摘する見方もある。ただし男系男子の 原則自体は1889年に既に法制化されており、除外はその37年後である 点には留意が必要である。

「126代」という数字が一枚岩の自明な数字ではないことを示す好例として、 神功皇后の事例は、本サイトのデータベースでも recognition_changeテーブルに記録されている (docs/DESIGN.md §1.5も参照)。

なお、神功皇后とは対照的に、現在も公式に歴代天皇として数えられて いる最初の女性天皇については別コラム(推古天皇) を参照。同じ1926年の整理で神功皇后とともに「女帝」の枠から外れた 飯豊青皇女(飯豊天皇)、および皇統譜令そのものの内容については 別コラム(大正15年の皇統譜令)で扱う。


出典

いずれも学術論文ではなく、公的機関の解説ページやニュース記事レベルの 出典である。特に卑弥呼同一視説は現在も論争がある学術的な論点であり、 一次資料・学術文献での確認・双方の立場のより丁寧な整理が望ましい。 神功皇后除外の動機(男系男子の原則を徹底させる意図の有無)についても、 皇統譜令そのものの原文・当時の審議記録という一次資料には今回到達 できておらず、今後の課題である。