← コラム一覧

公開: 2026-07-31

コラム:大正15年、「今の天皇の系図」はどう確定したのか――皇統譜令と歴代の名簿

version 0.1(草案)/ 2026-07-31

出典は文末にまとめている。学術論文ではなく百科事典・国立国会図書館の 法令索引・公的機関の解説ページレベルの出典が中心であり、一次資料 (皇統譜令原文そのもの、1926年当時の審議記録)での裏取りは今後の課題 である。本コラムは評価を下さず、確認できた事実のみを述べる。朝日 新聞「好書好日」に掲載された歴史学者・義江明子氏の記事(『女帝の古代 王権史』ちくま新書の紹介)にある「神武以降歴代の数と名前は、大正15年 (1926)に確定した」という一文を裏取りする。同じ記事が紹介する 「双系社会」という視点、および律令制・中国の影響については、 別コラム(双系社会から男系男子へ)で扱う。 神功皇后のコラムで扱った1926年の歴代除外の詳細と あわせて読むことを想定している。


1926年より前、皇統譜には詳しい規定がなかった

1889年(明治22年)の旧皇室典範 には、皇統譜について「皇統譜…ハ図書寮ニ於テ尚藏ス」という一文がある のみで、何を記載するか、どんな形式にするかという詳しい規定は存在 しなかった。実務は明治初年以来、宮中で行われてきた皇室系図の取調べに 関する内規によって運用されていたにすぎない。

大正15年10月21日、皇統譜令が公布される

これが初めて正式な法令として整備されたのが、**大正15年(1926年) 10月21日公布の皇統譜令こうとうふれい(皇室令 第6号)**である。国立国会図書館「日本法令索引」でも、この日付・ 号数が確認できる。

同令は皇統譜こうとうふを「大統譜」と「皇族譜」の 2種に分けた(第1条)。大統譜の天皇の欄には、御名・父・母・誕生年月日 時・命名年月日・践祚年月日・元号や改元の年月日・即位礼年月日・大嘗祭 年月日・成年式年月日・大婚年月日と皇后名・崩御年月日時・追号と追号 勅定年月日・大喪儀年月日と陵所名を記載すると定めた(第12条)。皇后の 欄にもほぼ同様の事項が定められている(第13条)。皇統譜には原本のほか 副本を備え、副本は内大臣府で保管すると定められた(第2条)。

同じ日に、加えられた天皇と、外れた「女帝」候補

まさにこの大正15年10月21日、南朝の長慶天皇(第98代)が「皇統加列の 詔書」によって新たに歴代に加えられている。大正年間に発見された史料 (『耕雲千首』奥書)により在位が実証されたことが根拠とされた。

一方で、伝承の神功皇后(歴代外)と、清寧天皇(第22代)の没後に一時 政務を執ったとされる飯豊青皇女(いいとよのあおのひめみこ。宮内庁は 「飯豊天皇」の称も用いるが、公式126代には算入されていない)は、同年 10月の一連の整理の中で「女帝」の枠から外れた。神功皇后の除外の経緯・ 公式説明については別コラムで詳しく扱っているが、 飯豊青皇女についても、同じ1926年の審議で「女帝」候補から最終的に 外れたことが朝日新聞の記事で確認できる。ただし、明治期から既に歴代の 代数には含めない扱いだったとする資料もあり、1926年に初めて除外が 決まったというより、既存の扱いがこの整理で最終的に確定した、と見る べきである。

「系図が確定した」とは、どういう意味か

以上を踏まえると、「大正15年に系図が確定した」という一文が指すのは、 神武天皇以降の父から子への血縁関係そのものが新たに確定した、と いう意味ではない。むしろ、「どの人物を正式に歴代天皇の一人として 数えるか」という公式な代数と名簿が、内規ではなく法令として初めて 定められた、という意味である。

この点は、明治〜大正の約50年間に複数の要因が積み重なって「126代」が 確定したという、用語集「126代」という数字の可変性 の整理とも重なる。神功皇后・飯豊青皇女の除外(1926年)と、廃位・ 非業の死などで長く歴代外だった弘文・淳仁・仲恭の3人の追加(1870年、 明治天皇による追諡)は、方向は逆だが、いずれも近代国家が「歴代天皇 とは何か」を初めて明文のルールで確定させる過程で起きた出来事である。


まとめ

(1) 「大正15年(1926年)に現在の天皇の系図が確定した」という一文は、 血縁関係そのものが確定したという意味ではなく、同年10月21日公布の 皇統譜令(皇室令第6号)によって、公式に歴代天皇として数える人物の 範囲・名簿が初めて法令として定められた、という意味である。 (2) 皇統譜令以前、皇統譜は1889年の旧皇室典範の簡潔な一文と、宮中の 内規によって運用されていた。 (3) 同じ大正15年10月21日、南朝の長慶天皇(第98代)が新証拠に基づき 新たに歴代に加えられる一方、神功皇后と飯豊青皇女(飯豊天皇)は 「女帝」の枠から外れた。ただし飯豊青皇女については、明治期から 既に歴代の代数に含めない扱いだったとする資料もあり、1926年が 除外の起点そのものとは断定できない。 (4) この一連の整理は、「126代」という数字が古代から不変ではなく、 近代国家の法制化過程で確定したことを示す一例である。

「双系社会」という視点から、そもそも古代になぜ女性天皇が多く、 律令制導入と中国の影響を経てなぜ後に途絶えたのかについては 別コラム(双系社会から男系男子へ)で扱う。


出典

出典は百科事典・国立国会図書館の法令索引レベルのものが中心で、学術 論文そのものではない。特に飯豊青皇女の除外が1926年の審議で新たに 決まったのか、それ以前からの扱いの確認にすぎなかったのかについては、 一次資料(皇統譜令をめぐる当時の審議記録)による確認を今後さらに 進めていく。