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公開: 2026-07-31

コラム:「双系社会」から「男系男子」へ――律令制と中国の影響が変えた女帝のゆくえ

version 0.1(草案)/ 2026-07-31

出典は文末にまとめている。学術論文ではなく百科事典・出版社解説記事・ 個人ブログレベルの出典が中心であり、一次資料(継嗣令原文、旧皇室典範 起草文書等)そのものでの裏取りは今後の課題である。本コラムは評価を 下さず、確認できた事実のみを述べる。朝日新聞「好書好日」に掲載された 歴史学者・義江明子氏の記事(『女帝の古代王権史』ちくま新書の紹介)が 提示する「双系社会」という視点をきっかけに、なぜ飛鳥・奈良時代に 女性天皇が続き、その後江戸時代まで途絶えたのかを、律令制導入と中国の 影響という切り口から整理する。「大正15年に系図が確定した」という 同じ記事のもう一つの論点(皇統譜令)は別コラム で扱う。女性天皇はなぜ続いたのかのコラム、 道鏡事件のコラム、 女性天皇・江戸時代の二人のコラムと あわせて読むことを想定している。


「双系社会」とは何か――義江明子氏の議論

歴史学者・義江明子氏(帝京大学名誉教授)は、2021年の著書 『女帝の古代王権史』 (ちくま新書)で、古代日本を「双系社会」と位置づけている。同書を 紹介する記事によれば、双系社会とは「父方と母方のどちらに属するかが 流動的で、父方・母方双方の血統が、子の社会的・政治的地位を決める上で 重要な要素となる」社会を指す。族外婚(氏族の外から配偶者を迎える べきだとするルール)が明確でなかった倭・日本社会では、王族の男女が 父方・母方の別なく近親婚をくり返しており、即位した人物の多くは 父方・母方いずれをたどっても1〜2代前の天皇に行き着く、という。

これに加えて、皇位継承では年齢・経験が重視される「長老原理」が 働いていたとされる。男女を問わず、おおむね40歳前後で即位する慣行が あり、39歳で即位した推古天皇(第33代)はその典型例だと義江氏は論じて いる。6世紀末から8世紀後半にかけて、女性天皇は8人10代即位して おり、これは同時期の男性天皇とほぼ同数にあたる。

この「双系・長老原理」説は、[女性天皇はなぜ続いたのかのコラム] (nara-period-empresses.md)で既に紹介した、女性天皇を「男系男子 継承者を待つだけの中継ぎ」だったとする従来の理解への異論と同じ ものである。詳しい経緯は同コラムを 参照。


律令制の導入と中国の影響――「父系原則」はいつ・どう始まったか

義江氏は、7世紀末、中国(唐)にならった律令国家が樹立される過程で、 初めて公式に父系原則が打ち立てられた、と説明する。『日本書紀』 (720年成立)も、中国の父系的な統治の体裁に合わせて、皇位があたかも 一貫して父系のみで継承されてきたかのように描写している、という 指摘である。中国由来の男系的価値観が『日本書紀』の記述そのものに 影響したという論点は、天照大神と女性性のコラム でも扱っている。

もっとも、日本の律令が唐の律令をそのまま輸入したわけではないという 点は、皇位継承のルールに関して顕著に表れている。大宝律令(701年)・ 養老律令(718年編纂/757年施行)には「継嗣令けいしりょう」 という篇目があり、皇親(皇族)の身分を定めているが、この篇目名・ 内容に対応する規定は、実は唐令には存在しない(唐令にあるのは爵位の 継承を扱う「封爵令」で、対象が異なる)。つまり皇位継承者の範囲を 定める規定そのものは、日本が独自に作った部分である。

その継嗣令第一条の本注(細則)には、わずか5文字の「女帝子亦同」 という一文がある。この一文をどう読むかは、江戸時代の国学者から 現代の研究者まで、長く論争が続いている。

  • 多数説(令の注釈書『令集解りょうのしゅうげ』に 収める古記・穴記・義解など): 「女帝の子もまた同じ(親王とする)」と 読む。
  • 江戸時代の国学者・薗田守良による別読: 「女も帝の子(皇女)も同じ (内親王とする)」と読み、皇女を親王と対句的に定めたに過ぎないと する。
  • 江戸時代の国学者・栗原信允による説: 「女帝の子」という事態は あり得ないとして、本文は「女皇子(内親王)亦同」の誤記だと推測する。

この一文を「女帝の子」と読む立場を取れば、女性天皇の子にも皇位継承の 資格を認めていたと解釈する余地が生まれる(現代の女系天皇論議でも 引用されることがある)一方、他の読み方を取ればそうした含意は消える。 本コラムはどの読みが正しいかを判定しないが、少なくとも、唐令にない 規定を日本が独自に作った末に、その解釈が千年以上にわたり定まって いないという事実自体は、律令制導入が単純な「中国の丸写し」ではな かったことを示している。

もっとも、律令制の導入(7世紀末)は、女性天皇をただちに終わらせた わけではない。701年の大宝律令施行から、元明天皇(第43代)・元正天皇 (第44代)・孝謙天皇(第46代)の即位を経て、孝謙天皇が称徳天皇として 重祚したのち崩御する770年まで、なお約70年にわたって女性天皇が続いて いる(詳しくは奈良時代の女性天皇コラム)。 中国由来の父系原則は、導入と同時に女性天皇を排除したというより、 その後長い時間をかけてイデオロギーとして浸透していった、と見るのが 実態に近い。


なぜ「あれほど続いた女帝」が、その後ぱたりと止まったのか

飛鳥・奈良時代の女性天皇の連続が途切れる直接のきっかけは、769年の 宇佐八幡宮神託事件(道鏡事件)である。この事件と、その後約860年に わたり女性天皇が一人も立てられなかった背景については、 道鏡事件のコラムで、(1)道鏡事件の衝撃、(2)神道の 「ケガレ」観念の強まり、(3)仏教の「女人五障」観、(4)儒教的な男尊 女卑観の浸透(大陸由来)、(5)武家社会における男子相続の慣行、という 5つの要因を整理している。このうち(4)は、本コラムで見た「中国由来の 父系原則」がさらに時代を下って強化されていく過程と重なる。

860年後の江戸時代、明正天皇(第109代)・後桜町天皇(第117代)という 2人の女性天皇が即位するが、この2人は父をたどれば天皇に至る「男系の 女子」であり、同時代の関係者からも明確に「中継ぎ」と意識されていた (詳しくは女性天皇・江戸時代の二人のコラム)。 つまり、飛鳥・奈良時代の女性天皇とは位置づけそのものが異なる形での 「復活」だった。

そして明治22年(1889年)、旧皇室典範 第一条が「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」と定め、 初めて法文によって皇位継承者を男系男子に限定した。起草の途中、 1885年に宮内省がまとめた草案「皇室制規」には「皇族中男系絶ユルトキハ 皇族中女系ヲ以テ継承ス」(男系が絶えたときは女系で継承する)という、 女系拡大を認める案が実際に存在した。しかし1886年、法制官僚の井上毅が 「謹具意見」を提出してこれに反対し、以後の草案から女系継承を認める 規定は消えた。

井上毅の反対理由として伝えられているのは、(a)当時の男尊女卑の風潮の もとでは、女性天皇よりもその配偶者(皇婿)の権威が実質的に大きくなり かねないという懸念、(b)仮に女性天皇が例えば「源」を名乗る男性を夫に 迎え、その間に生まれた子が皇位を継いだ場合、それは事実上「源姓の 王朝」への交代を意味するのではないか、という懸念である。井上はこれを 「万世一系(百王一系)」の断絶を意味する、最も恐るべき事態だと捉えて いたとされる。

この「王朝の姓が変わることへの恐れ」は、儒教的な政治思想における 易姓革命えきせいかくめい(徳を失った王朝に 代わり、別の姓の家系が天命を受けて新たな王朝を開くとする中国由来の 政治思想)と、論理の構造そのものはよく似ている。ただし、この場面で 井上毅自身が「易姓革命」という語を直接使ったことを示す一次資料は 今回確認できておらず、この対応関係は本コラムによる整理である点に 留意されたい。いずれにせよ、7世紀末の律令制導入から明治22年の皇室 典範制定まで、中国由来の政治思想・法体系が、日本の皇位継承のあり方を 形づくる基層であり続けたことがうかがえる。


まとめ

(1) 歴史学者・義江明子氏は、古代日本を父系・母系どちらにも偏らない 「双系社会」と位置づけ、年長者が男女問わず指導力を持つ「長老原理」 のもとで、6世紀末〜8世紀後半に女性天皇が男性天皇とほぼ同数即位した と論じている。 (2) 7世紀末、中国(唐)にならった律令国家の樹立に際して公式な父系 原則が打ち立てられたが、皇位継承者の範囲を定める「継嗣令」自体は 唐令にない日本独自の規定であり、その中の「女帝子亦同」という一文の 解釈は江戸時代から現代まで論争が続いている。 (3) 律令制導入(701年)後も約70年間は女性天皇(元明・元正・孝謙/ 称徳)が続いており、中国由来の父系原則は導入と同時にではなく、 長い時間をかけて浸透していった。 (4) 769年の道鏡事件を境に約860年女性天皇が途絶え、江戸時代に復活 した2人は「男系の女子・中継ぎ」という異なる位置づけだった。 (5) 明治22年(1889年)、旧皇室典範が初めて法文で皇位継承者を男系 男子に限定し、起草過程で検討されていた女系継承容認案は、井上毅の 反対により消えた。井上の反対理由は、中国由来の「易姓革命」概念と 論理構造の重なる、王朝の姓が変わることへの恐れだったと伝えられて いる。

「大正15年に今の系図が確定した」という一文そのものの裏取りは 別コラム(皇統譜令)を参照。古代の双系社会 から近代の男系男子限定に至るこの長い過程は、2026年の皇室典範改正 論議の前提そのものでもある。詳しくは 皇室典範改正2026のコラムを参照。


出典

出典は百科事典・出版社の紹介記事・個人が運営する専門ブログが中心で、 学術論文そのものではない。特に(a)継嗣令「女帝子亦同」の解釈をめぐる 学説の全体像、(b)井上毅の議論と「易姓革命」概念との関係については、 一次資料(令集解原文、皇室典範起草文書、宮部香織論文原文等)による 確認を今後さらに進めていく。Amazon商品ページはアフィリエイトリンク (当サイト運営者のAmazonアソシエイトタグを含む)である。