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公開: 2026-07-11

コラム:女性天皇はなぜ続いたのか――飛鳥から奈良、5人7代の即位を検証する

version 0.5(草案)/ 2026-07-17

出典は文末にまとめている。学術論文ではなく百科事典・出版社解説記事 レベルの出典が中心であり、一次資料(『日本書紀』『続日本紀』原文等) での裏取りは今後の課題である。本コラムは評価を下さず、確認できた 事実のみを述べる。推古天皇のコラムで扱った初の 女性天皇・推古天皇に続き、飛鳥時代半ばの皇極天皇から奈良時代の 称徳天皇崩御まで、女性天皇の即位が繰り返された時期を扱う。この 連続が途切れる転換点となった道鏡事件そのもの、および事件後にこの 出来事がどう「記憶」されてきたかについては、 別コラム(道鏡事件と和気清麻呂)で詳しく扱う。 乙巳の変の暗殺の詳細、その後23年間続いた政敵排除、大化の改新の 実在性をめぐる学説史については、 別コラム(乙巳の変と大化の改新)で詳しく扱う。


推古天皇のあと、女性天皇はなぜ5人7代も続いたのか

推古天皇(第33代、592年即位)の崩御から約130年の間に、日本には さらに4人の女性天皇が、あわせて6回(重祚〔ちょうそ、同一人物が再び 即位すること〕を含む)即位した――皇極天皇(斉明天皇として重祚)・持統天皇・元明天皇・元正天皇・孝謙天皇(称徳天皇として重祚)である。人数にして5人、代数にして 7代(第35・37・41・43・44・46・48代)にのぼる。

女性天皇には「男系男子継承者が育つまでの中継ぎ」という見方が しばしば語られる。以下ではまず各天皇の即位の経緯を個別に見た うえで、この「中継ぎ」という理解が当時どこまで当てはまるのかを 章末でまとめて検討する。

皇極天皇:候補者が定まらぬまま、49歳での即位

641年、舒明天皇が崩御した時点で、次の皇位継承者は定まっていな かった。有力候補としては舒明天皇の子である中大兄皇子(なかの おおえのみこ、17歳)のほか、古人大兄皇子・山背大兄王ら複数の 皇族がおり、いずれも決め手を欠く状態だったとされる。この状況の 中、642年、舒明天皇の皇后だった宝女王(たからのひめみこ)が 49歳で即位し、皇極天皇となった。

皇極天皇の在位中、政治の実権は大臣・蘇我蝦夷とその子・ 蘇我入鹿が握っていた。643年11月、入鹿は有力な皇位継承候補 だった山背大兄王を斑鳩宮に襲撃させ、山背大兄王は一族もろとも 滅んだ。そして645年6月、皇極天皇4年、中大兄皇子と中臣鎌足が 宮中で蘇我入鹿を暗殺し、翌日には父の蘇我蝦夷も自害に追い込まれた (乙巳の変〔いっしのへん〕)。その2日後、皇極天皇は同母弟の 軽皇子(かるのみこ、のちの孝徳天皇)に皇位を譲った。これは記録に 残る日本史上最初の譲位とされている。暗殺の具体的な経緯、翌日の 蘇我蝦夷自害と記録焼却、そして中大兄皇子が即位するまでの23年間に 排除されていった政敵たちについては 別コラム(乙巳の変と大化の改新)を参照。

斉明天皇への重祚:二人の男性天皇のはざまで

孝徳天皇は654年に崩御した。本来であれば有力候補だった中大兄皇子が 即位してもおかしくない状況だったが、実際に即位したのは、退位して いた皇極上皇(当時「皇祖母尊」〔すめみおやのみこと〕と呼ばれて いた)だった。655年、62歳で再び皇位に就き、斉明天皇となった―― 史上初の重祚である。

中大兄皇子がこの時点で即位しなかった理由について、複数の解説記事 は、乙巳の変で自ら母(皇極天皇)の権威を一度否定した経緯から即位に 慎重にならざるを得なかったこと、および百済救援をめぐる朝鮮半島 情勢の緊迫という対外的な課題への対応を優先したこと、を背景として 挙げている。斉明天皇の在位中、政治の実権は皇太子である中大兄皇子が 担っていたとされる。

斉明天皇の治世では、大規模な運河工事(「狂心渠」〔たぶれごころの みぞ〕。当時の人々から「狂心の渠」と揶揄されたと伝えられる)や、 阿倍比羅夫による蝦夷遠征など、活発な事績が伝えられている。660年、 百済が唐・新羅に滅ぼされると、百済復興を支援するため自ら筑紫 (九州)へ赴いたが、661年、遠征の途上、朝倉宮で崩御した。天皇の 死後も遠征軍は戦い続けたが、663年、白村江の戦いで唐・新羅連合軍 に敗れた。斉明天皇の崩御後、中大兄皇子は即位せず、皇太子のまま 政務を執る「称制」という形をとり、668年になってようやく 天智天皇として即位した。


80年間の半分近くが、女性天皇の治世だった

皇極・斉明天皇の時代から一世代を経て、690年の持統天皇即位から 770年の称徳天皇崩御までのおよそ80年間、女性天皇はふたたび 持統・元明・元正・孝謙(称徳として重祚)と4人(在位は5回)登場し、 あわせるとこの期間のかなりの部分を占める。これは日本の歴史上もっとも 女性天皇が集中した時期である。

持統天皇:息子ではなく、孫のために

天武天皇の皇后だった持統天皇は、天武天皇の死後、自らが即位して 政治を担った。本来皇位を継ぐはずだった実子の草壁皇子が即位前に 没したため、まだ幼かった孫(のちの文武天皇)が成長するまでの間を つなぐ形での即位だったとされる。697年、文武天皇に譲位。存命のまま 譲位した最初期の例としても知られる。

元明天皇・元正天皇:母娘二代の「中継ぎ」、そして「不改常典」

文武天皇が25歳の若さで崩御したとき、その子である首皇子(おびとの みこ、のちの聖武天皇)はまだ幼かった。そこで文武天皇の母である 元明天皇が即位し、710年には都を平城京(奈良)に遷した。さらに 元明天皇の娘である元正天皇が跡を継ぎ、724年、成長した甥の聖武 天皇に皇位を譲った。

この母娘二代による中継ぎは、聖武天皇自身の即位の宣命の中で「不改 常典(ふかいのじょうてん)」――天智天皇が定めたとされる、皇位継承に 関する不変の決まり――に基づくものだと明確に述べられているとされる。 つまり、これは場当たり的な措置ではなく、当時の朝廷が明文の論理を もって説明していた継承だったことになる。

ただし、「不改常典」が具体的に何を定めた法だったのかは、史料に 明文の説明がなく、現在も歴史学者の間で見解が分かれている。天皇の 子への直系相続を定めた法だったとする説(直系皇位継承法説)が有力と されるが、正妻の子に限定する法だったとする説(嫡系皇位継承法説)、 さらには天智天皇が実際に定めた法ではなく直系継承を正当化するために 後世に作られた説明だったとする説(仮託説)もあり、定説には至って いない。つまり、元明天皇の即位を正当化した「不改常典」という論理 そのものの実体は、今なお論争の対象である。

聖武天皇の娘、孝謙天皇へ

聖武天皇には男子(基王)がいたが早くに亡くなり、成人した実子は 娘の阿倍内親王(のちの孝謙天皇)のみだった。749年、聖武天皇は 阿倍内親王に譲位し、孝謙天皇が即位した。

孝謙天皇は758年にいったん皇位を淳仁天皇に譲るが、764年、藤原仲麻呂 (恵美押勝)の乱を経て淳仁天皇を廃位し(淡路に配流。淳仁天皇のその後の 扱いについてはdocs/research/male-female-line.md、 および recognition_change テーブルも参照)、自ら称徳天皇として 重祚した。この重祚後、 皇族でない僧・道鏡が急速に台頭し、最終的に皇位継承の危機(宇佐八幡宮 神託事件、769年)に至る。この事件の経緯、称徳天皇崩御後の皇統の転換、 そして事件後この出来事がどう「記憶」され、和気清麻呂が近代の忠臣像 として顕彰されていったかについては、 別コラム(道鏡事件と和気清麻呂)で詳しく扱う。


なぜ女性天皇が続いたのか、「中継ぎ」は当時の認識だったのか

各天皇の即位の経緯を並べると、共通する構造が浮かび上がる。

天皇即位年直前の状況
皇極天皇642年舒明天皇崩御後、中大兄皇子ら候補者が若年・複数で決着せず
斉明天皇(重祚)655年孝徳天皇崩御後、中大兄皇子が即位を見送る
持統天皇690年皇太子・草壁皇子の早世、孫の文武天皇が幼少
元明天皇707年文武天皇が25歳で早世、子の首皇子(聖武)が幼少
元正天皇715年母・元明天皇からの譲位、甥の聖武天皇がまだ若年
孝謙天皇749年聖武天皇の男子(基王)が早世、実子は阿倍内親王のみ
称徳天皇(重祚)764年藤原仲麻呂の乱を経て淳仁天皇を廃位

想定されていた男性の後継者が若すぎる、あるいは即位前・即位後まもなく 没する、という事態が繰り返し起き、そのたびに直系の女性(母・祖母・ 叔母/伯母)が皇位に就く、という構造が見て取れる。称徳天皇の重祚 のみは「後継者不在」という構図とはやや性格が異なり、藤原仲麻呂の乱 という政変の結果である。

「中継ぎ」という言葉自体は、いつの視点か

「中継ぎ」という表現は、現代の解説記事や研究で広く使われている。 たとえば皇極天皇の即位についても「推古天皇の時と同様、中継する 女帝として」即位したと説明する記事がある。しかし、この「中継ぎ」 という言葉自体が『日本書紀』や『続日本紀』などの一次資料に直接 使われているわけではなく、現代の学術・一般向け解説が用いる術語で ある(一次資料での逐語的な確認は今後の課題)。

当時の朝廷が即位の正統性をどう説明していたかを確認できる数少ない 手がかりが、前述の元明天皇・聖武天皇の即位宣命に登場する「不改 常典」である。これは、女性天皇への皇位継承を場当たり的な措置と してではなく、天智天皇に由来するとされる明文の論理で説明しようと した試みだったとみることができる。ただし、この「不改常典」の内容 自体、直系皇位継承法説・嫡系皇位継承法説・仮託説など複数の解釈が あり、定説はない。皇極・斉明天皇の即位については、これに相当する 明文の論理づけがあったことを示す史料は今回確認できていない。

「中つぎ」説への異論

近年の歴史学では、この「中継ぎ」という理解そのものに異論も出されて いる。歴史学者の義江明子氏は、2021年の著書『女帝の古代王権史』 で、6〜8世紀の女性天皇を「男系男子継承者を待つだけの中つぎ」だった とする従来の理解に異を唱え、古代の王権継承は男系・女系のどちらにも 偏らない「双系」的な親族関係と、男女双方の年長者が指導力を持つ 「長老原理」に基づいていたと主張している。この見方によれば、女性 天皇は単なる代役ではなく、それ自体として正統な統治者だったという ことになる。

一方で、女性天皇を男系男子継承者が育つまでの「中つぎ」とする理解は 現在も広く見られる。たとえば著述家の竹田恒泰氏は、女性天皇を 「男系男子継承者の成長を待つ中つぎ」だったとする立場を明確にとって いる(男系・女系をめぐる資料 §5参照)。

本コラムはこの論争のどちらが正しいかを判定する立場にない。確認 できるのは、(1) 各天皇の即位が、その都度、男性後継者の不在・若年 という具体的な状況を背景に説明されていること、(2) 元明・聖武の 即位宣命に見える「不改常典」という当時の公式の論理づけが存在した 一方で、その内実は今も論争的であること、(3) 「中継ぎ」という理解 そのものについても、現代の歴史学の中で有力な異論が示されていること、 の3点である。


まとめ

飛鳥から奈良にかけて、女性天皇は単なる名目的な存在ではなかった。 皇極天皇(斉明天皇)は乙巳の変や対外的な軍事危機のただ中で2度 即位し、持統天皇は孫の即位を実現するために自ら政治を主導した。 元明・元正天皇は「不改常典」という明文の論理のもとで平城京遷都と いう大事業を含む実質的な統治を担い、孝謙天皇/称徳天皇に至っては、 藤原仲麻呂の乱を経て自ら重祚するなど、極めて能動的に政治へ関与した 人物として描かれている。それぞれの即位はその都度の後継者不在という 具体的な事情を背景としており、それを「中継ぎ」と呼ぶかどうか自体、 現代の歴史学の中でなお論争が続いている。この時代の終わりに起きた 道鏡事件については、別コラムで単独で扱う。

女性天皇8人10代の全体像とその後の議論については docs/research/male-female-line.md、 淳仁天皇の廃位とその後の扱いについては同資料および recognition_changeテーブルを参照。

皇極天皇の即位時に中大兄皇子ら複数の男性候補がいながら決着しな かったという事実、そして各天皇の即位事情が「男性候補不在」の 一言では割り切れないという本コラムの整理は、「男系男子が古来 例外なく維持されてきた」という現代の主張の検証にも関わる。2026年 の皇室典範改正をめぐる論争でのこの点の扱いは 皇室典範改正2026のコラムを参照。


出典

道鏡事件・宇佐八幡宮神託事件・和気清麻呂に関する出典は 別コラム(道鏡事件と和気清麻呂)を参照。 「男系」「女系」をめぐる各論者の立場については docs/research/male-female-line.mdを参照。

出典は大学・出版社の解説ページやニュース記事が中心で、学術論文では ない。特に「不改常典」の内容そのもの、「中継ぎ」という理解に対する 異論の当否については、一次資料(『日本書紀』『続日本紀』等)・学術 文献による確認を今後さらに進めていく。

義江氏が唱える「双系社会」「長老原理」という概念そのものの内容、 および7世紀末の律令制導入が中国由来の父系原則をどう持ち込んだかに ついては、双系社会から男系男子へのコラムで 詳しく扱う。