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公開: 2026-07-18

コラム:暗殺・粛清・書き替えられた詔――乙巳の変と大化の改新の実像

version 0.1(草案)/ 2026-07-18

出典は文末にまとめている。学術論文ではなく百科事典・出版社解説記事 レベルの出典が中心であり、一次資料(『日本書紀』原文等)での裏取りは 今後の課題である。本コラムは評価を下さず、確認できた事実のみを述べる。 奈良時代の女性天皇コラムでは皇極天皇・ 斉明天皇の即位を「女性天皇はなぜ続いたのか」という角度から扱ったが、 本コラムではその同じ時期に起きた乙巳の変・大化の改新そのものを、 政変の経緯と、その後23年間続いた政敵排除の政治史として詳しく扱う。


蘇我氏の専横――馬子から蝦夷、入鹿へ

592年、有力豪族・蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺した。記録に残る限り、歴代 天皇の中で暗殺されたのはこの崇峻天皇だけとされている(経緯は 推古天皇のコラムを参照)。この事件のあと、馬子が 擁立したのが推古天皇である。

推古天皇・聖徳太子の時代を経て、蘇我氏の権勢は馬子から子の 蝦夷えみしへ、蝦夷から子の入鹿へと世襲されて いった。複数の解説記事は、この頃には蘇我氏の権力が皇室を凌ぐほどに なり、有力な豪族たちが朝廷ではなく蘇我家に出仕するような状況すら 生まれていた、と指摘している。

山背大兄王襲撃(643年)――皇位候補の排除

643年11月、蘇我入鹿は、蘇我の血を引く古人大兄皇子を皇位継承者に 推すため、聖徳太子の子である 山背大兄王やましろのおおえのおうを斑鳩宮 (いかるがのみや)に襲撃させた。山背大兄王は生駒山へ逃れたが、 最終的に斑鳩寺で一族もろとも自害し、聖徳太子の家系(上宮王家)は 滅亡した(聖徳太子・上宮王家についての背景は 推古天皇時代の男系男子候補のコラム を参照)。

乙巳の変(645年)――大極殿での暗殺

乙巳の変〔いっしのへん〕は、645年(乙巳の年)6月12日、時の権力者 ・蘇我入鹿が宮中で暗殺された政変である。中心人物は 中大兄皇子(舒明天皇の子、のちに即位して第38代の天皇となる)と 中臣鎌足だった。

複数の解説記事によれば、中臣鎌足は以前から蘇我氏の専横を快く思わず、 打倒の計画を密かに進めていたとされる。法興寺での打毬(だきゅう)の 折、中大兄皇子の靴が脱げたのを鎌足が拾って捧げたことが縁で二人は 親しくなり、南淵請安(みなぶちのしょうあん)の私塾へ通う往復の道中で 密談を重ねたと伝えられる。鎌足はさらに、蘇我一族の長老である 蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだのいしかわまろ (蝦夷から入鹿への大臣継承を快く思っていなかったとされる)を同志に 引き入れ、その娘を中大兄皇子の妃とした。

計画が実行されたのは、朝鮮半島の三韓からの使者が貢物を進上する儀式 の場だった。皇極天皇(第35代)が大極殿に出御し、古人大兄皇子も側に 控える中、石川麻呂が上表文を読み上げた。これが合図だったが、剣を 託されていた 佐伯子麻呂さえきのこまろと 葛城稚犬養網田かつらぎのわかいぬかいのあみたは 恐怖で動けず、業を煮やした中大兄皇子自らが長槍を手に躍り出て、入鹿の 肩から首にかけて斬りつけたとされる。入鹿は「私に何の罪があるのか」と 訴えたと伝えられるが、皇極天皇は無言のまま殿中へ退いたという。

燃えた『天皇記』『国記』――記録も政争の対象になった

翌6月13日、父・蘇我蝦夷は自邸に火を放って自害し、蘇我本宗家は滅んだ。 この時、蝦夷の邸内にあった『天皇記』『国記』などの記録も焼かれたと される。ただし、 船恵尺ふねのえさかという人物が火中から『国記』 を救い出し、中大兄皇子に献上したと伝えられている。この逸話が事実だと すれば、この時代の歴史記録そのものが、誰が書き・誰が焼き・誰が 救い出すかという政争のただ中にあったことになる。

即位までの23年、消えていった政敵たち

事件の2日後、皇極天皇は同母弟の軽皇子(かるのみこ)に皇位を譲り、 孝徳天皇(第36代)が即位した。記録に残る日本史上最初の譲位と される。有力候補だった中大兄皇子はこのとき即位せず、皇太子として 実権を握る立場にとどまった。

その後、23年にわたって天皇の地位に就かなかった中大兄皇子の周辺では、 潜在的な政敵とみなされ得た人物が次々と粛清されていく。

古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこ(645年)

乙巳の変で後ろ盾を失った古人大兄皇子は、皇位に即くよう勧められたが 固辞し、出家して吉野へ隠退した。しかし同年9月、 吉備笠垂きびのかさたるという人物から「古人大兄 皇子が謀反を企てている」との密告がもたらされ、中大兄皇子はこれを 受けて古人大兄皇子を攻め滅ぼさせた。実際に謀反を企てていたかは 現在でも諸説あり、古人大兄皇子の与同者とされた人物たちがその後も 官人として活動を続けていることから、この事件は古人大兄皇子と蘇我氏 の残党を排斥すること自体が本来の目的だったのではないか、とする見方 もある。

蘇我倉山田石川麻呂(649年)

乙巳の変で中大兄皇子側に与し、上表文を読み上げる役まで担った蘇我 倉山田石川麻呂も、無事では済まなかった。649年、異母弟の 蘇我日向そがのひむかから「石川麻呂が中大兄皇子 を害しようとしている」との讒言(ざんげん)がもたらされた。孝徳天皇は 真偽を2度確かめようとしたと史料に記されているが、石川麻呂は最終的に 自害に追い込まれた。この事件は、中大兄皇子が新政に容易には服さない 有力者(左右大臣)を粛清しようとした権力闘争だった、とする解釈がある。

有間皇子(658年)

654年に孝徳天皇が崩御すると、655年、退位していた皇極上皇が 斉明天皇(第37代、皇極天皇と同一人物による重祚〔ちょうそ、 同一人物が再び即位すること〕)として即位した(この重祚の経緯は 奈良時代の女性天皇コラムで詳しく扱って いる)。孝徳天皇の遺児・有間皇子は、658年11月、 蘇我赤兄そがのあかえから中大兄皇子への密告に よって謀反の計画があったとされ、藤白坂(現在の和歌山県海南市)で 絞首刑に処された。19歳だった。解説記事によれば、赤兄が有間皇子に 接近したこと自体、中大兄皇子の意を受けたものだった可能性が指摘され ている。

661年に斉明天皇が崩御したのちも、中大兄皇子はすぐには即位せず、 皇太子のまま政務を執る称制(しょうせい、皇位に就かないまま 政治を主導する形)を続けた。中大兄皇子が天智天皇(第38代)として 正式に即位したのは、乙巳の変から23年が経った668年のことだった。


大化の改新とは何だったのか――改新の詔と「郡評論争」

乙巳の変に始まる一連の政治改革は「大化の改新」と呼ばれる。646年 (大化2年)正月に出されたとされる「改新の詔」は、主に4つの柱から なる。

  • 公地公民制: 天皇や豪族が私的に支配していた土地・民を廃止し、 すべて公のものとする。
  • 国郡里制度: 豪族の勢力圏だった国・県を再編し、のちの令制国の かたちに整える。
  • 班田収授法: 戸籍・計帳を作成し、公地を公民に貸し与える。
  • 租庸調: 公民に税・労役を負担させる制度を整える。

ただし、この「改新の詔」の実在性そのものが、戦後の歴史学で長く争わ れてきた。1950年代、歴史学者の坂本太郎氏と井上光貞氏の間で 「郡評論争」が交わされた。決着をつけたのは考古資料だった。1967年 12月、藤原京跡から「己亥年十月上捄国阿波評」と記された木簡が出土し、 大化の改新当時は「郡」ではなく「評」〔こおり〕という行政区画名が 使われていたことが判明した。ところが『日本書紀』が伝える改新の詔の 文面は「郡」という8世紀(701年の大宝律令以降)の用語で書かれている。 このことから、改新の詔の文書自体は『日本書紀』編纂の際に、当時 (8世紀前半)の知識・用語で書き改められたことが確実視されるように なった。

これを受けて歴史学者の原秀三郎氏らは、改新そのものを『日本書紀』 編纂者による後世の創作だとする「改新否定論」を唱え、一時はこの説が 学界の大勢を占めた。しかし1977年、鎌田元一氏が論文「評の成立と 国造」で改新を肯定する見解を示し、以後、改新詔の文言そのものは 批判的に見つつも大化・白雉期に実際の政治的変革があったこと自体は 認める「新肯定論」が学界の主流になっていったとされる。難波宮跡 (1999年)や石神遺跡(2002年)での木簡発見も、この新肯定論を補強する 材料として挙げられている。

この論争が示しているのは、私たちが読む「乙巳の変」「大化の改新」の 物語そのものが、事件の約75年後(720年)に完成した『日本書紀』という 書物――しかも、事件の勝者側の子孫が編纂に深く関わった書物――を通じて 伝えられている、という事実である。史実がどこまで含まれ、どこからが 後世の潤色かという線引きは、今なお歴史学の論争の対象である。

中臣鎌足、死の床で「藤原」の姓を賜る

乙巳の変の首謀者の一人・中臣鎌足は、669年(天智天皇8年)10月、 山科での狩猟中に落馬して背中を負傷した。見舞いに訪れた天智天皇に対し、 鎌足は「生きては軍国に務(つとめ)無し」(生きていても、もはや国家の ために働くことはできない)と述べたと伝えられる。天智天皇は鎌足に 最高位の冠位である「大織冠」を授け、内大臣に任じたうえで、 「藤原」の姓を与えた。鎌足はその翌日、56歳で没した。

この「藤原」の姓こそ、のちに摂政・関白を独占し、称徳天皇の代の 道鏡事件をはじめ以後の宮中政治を左右し続ける藤原氏の起点である (道鏡事件と藤原氏による摂関政治については 道鏡事件のコラムを参照)。乙巳の変で蘇我氏を 打倒した鎌足の一族が、その後の日本の宮廷政治において蘇我氏に 匹敵する、あるいはそれ以上の権勢を長期にわたって握ることになった 点は、記憶しておく価値がある。


乙巳の変をどう読むか――専横の打倒か、権力闘争か

『日本書紀』が伝える乙巳の変の物語は、専横を極め皇位簒奪すら企てた 逆賊・蘇我入鹿を、中大兄皇子と中臣鎌足が皇室のために打倒した、という 構図で語られている。しかし、この読み方には検討すべき論点が少なく とも二つある。

一つ目は、動機についての異説である。東京大学史料編纂所教授の 山本博文氏は、暗殺の際に中大兄皇子が入鹿の罪状として述べたとされる 「(入鹿は)天皇に取って代わろうとしたのだ」という言葉について、 「自分の行為を正当化するために言ったことに違いありません」と指摘して いる。山本氏は、蘇我氏が中大兄皇子の異母兄・古人大兄皇子を支持して いたため、当時の中大兄皇子自身には皇位に就ける見込みがほとんど なかったことこそが暗殺の主因であり、その後、古人大兄皇子・蘇我倉 山田石川麻呂・有間皇子と、中大兄皇子にとって邪魔になり得た人物が 次々と粛清されていったパターンから見て、この一連の事件は「中大兄の 謀略」だったと結論づけている。

二つ目は、蘇我氏の政策路線についての異説である。2005年の発掘 調査により、蘇我氏が飛鳥に防衛施設を築いていたことが判明した。これを 踏まえ、蘇我氏は唐(当時の中国)の脅威に備えようとしていたのに対し、 百済重視の路線をとる保守派が蘇我氏を打倒した、とする解釈も示されて いる。この見方に立てば、乙巳の変は「専横する逆賊の打倒」というより、 外交路線をめぐる保守派によるクーデターだった、ということになる。

本コラムはこの論争のどちらが正しいかを判定する立場にない。確認できる のは、(1)『日本書紀』の物語自体が、事件の勝者側の子孫が編纂に関わった 書物を通じて伝えられていること、(2) 中大兄皇子が即位するまでの23年間、 複数の有力者が「謀反の密告」を経て排除されるという同型のパターンが 繰り返されていること、の2点である。


まとめ

  1. 蘇我馬子・蝦夷・入鹿の3代にわたり、蘇我氏の権勢は皇室を凌ぐほどに 拡大した(馬子による崇峻天皇暗殺は推古天皇のコラム を参照)。
  2. 643年、入鹿は皇位候補だった山背大兄王を襲撃し、聖徳太子の家系 (上宮王家)を滅ぼした。
  3. 645年6月、皇極天皇の宮中で、中大兄皇子・中臣鎌足らが入鹿を暗殺し (乙巳の変)、翌日には蝦夷も自害した。この際、記録書『天皇記』 『国記』も焼かれ、『国記』のみ火中から救い出されたと伝えられる。
  4. 中大兄皇子はその後もすぐには即位せず、23年間で古人大兄皇子 (645年)・蘇我倉山田石川麻呂(649年)・有間皇子(658年)という 3人の有力者が、いずれも「謀反の密告」を経て排除された。668年に ようやく天智天皇として即位した。
  5. 646年の改新の詔を柱とする「大化の改新」は、戦後の「郡評論争」 (1967年の木簡発見で決着)を経て、『日本書紀』の詔文自体が後世に 書き改められたものであることが判明した。現在の学界の主流は、 詔の文言を批判的に見つつも大化・白雉期の政治変革自体は認める 「新肯定論」である。
  6. 乙巳の変の首謀者の一人・中臣鎌足は、669年の死の直前に天智天皇から 「藤原」の姓を授かった。これがのちに約800年にわたり宮中政治を 左右し続ける藤原氏の起点となった(道鏡事件のコラム も参照)。
  7. 乙巳の変を「専横する逆賊の打倒」と読むか、「中大兄皇子による周到な 権力闘争」「外交路線をめぐる保守派のクーデター」と読むかは、現在も 論者によって見方が分かれている。

皇極天皇(斉明天皇)自身の即位・重祚の経緯や、この時代が女性天皇の 連続即位という文脈でどう位置づけられるかについては 奈良時代の女性天皇コラムを参照。


出典

出典は百科事典・出版社の解説記事が中心で、学術論文ではない。特に 郡評論争以降の学説史の細部(改新否定論・新肯定論それぞれの論者の 全体像)、山背大兄王襲撃事件における他の皇族の関与の有無、蝦夷邸での 記録焼却・『国記』救出の逸話の史料的な裏付けについては、一次資料・ 学術文献による確認を今後さらに進めていく。皇極天皇・斉明天皇そのもの の出典は奈良時代の女性天皇コラムを参照。