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公開: 2026-07-17

コラム:推古天皇と並んだ男系男子候補たち――押坂彦人大兄皇子・竹田皇子・厩戸皇子・蜂子皇子

version 0.2(草案)/ 2026-07-17

出典は文末にまとめている。学術論文ではなく百科事典・出版社解説記事 レベルの出典が中心であり、一次資料(『日本書紀』原文等)での裏取りは 今後の課題である。本コラムは評価を下さず、確認できた事実のみを 述べる。推古天皇のコラムで「当時、男性の有力な 皇位継承候補は複数存在した」と述べた点を、本コラムで人物名・続柄 つきに掘り下げる。


592年、崇峻天皇暗殺で空位になった皇位

592年(崇峻5年)11月、第32代・崇峻天皇が蘇我馬子の命により暗殺 された。この時点で、欽明天皇の血を引く男系男子の候補は複数存在 した。翌593年、即位したのは崇峻天皇の異母姉にあたる推古天皇 (額田部皇女ぬかたべのひめみこ)である。以下、 確認できた男系男子の候補4人を、続柄・なぜ即位しなかったかとともに 整理する。

候補者一覧

皇子父(天皇)母なぜ即位しなかったか
押坂彦人大兄皇子敏達天皇(第30代)の第一皇子広姫(息長真手王の娘。蘇我氏の血を引かない)敏達天皇系で最も正統な長子だったが、蘇我氏の血を引かないことが不利に働いたとされる
竹田皇子敏達天皇(第30代)の子推古天皇自身(額田部皇女。蘇我稲目の孫)蘇我氏にとって最有力候補だったが、敏達天皇崩御(585年)時点でまだ幼く、その後まもなく早世した(時期には諸説ある)
厩戸皇子(聖徳太子)用明天皇(第31代)の子穴穂部間人皇女(欽明天皇の皇女。母は蘇我小姉君で蘇我の血を引く)有力候補の一人だったが即位せず、593年に推古天皇の皇太子・摂政となった
蜂子皇子崇峻天皇(第32代、暗殺された当人)の第三皇子小手子父を暗殺した蘇我馬子への恐れから出奔したと伝わり、候補としては名も挙がらなかった

押坂彦人大兄皇子おしさかのひこひとのおおえのみこ:最も正統な長子が、蘇我の血を理由に外れる

押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の第一皇子で、母は 息長真手王おきながのまてのおおきみの娘・ 広姫ひろひめである。広姫は蘇我氏の出身では ない。587年の用明天皇崩御後にも 王位継承候補として名が挙がったとされるが、対立する蘇我系王族が 台頭したため、以後の史料には活動がほとんど見えなくなる。子である 舒明天皇の生年(593年頃)から逆算すると、592年の推古天皇即位後も しばらく生存していたとみられ、非蘇我系の有力者として一定の影響力を 保っていた可能性が指摘されている。彼の子・田村皇子は、のちに推古 天皇の後継として第34代・舒明天皇に即位した。

竹田皇子:蘇我にとって最有力の候補が、早世する

竹田皇子は敏達天皇の子で、母は推古天皇自身(額田部皇女)である。 額田部皇女は蘇我稲目の孫にあたるため、竹田皇子が即位すれば蘇我氏の 権勢を大きく後押しすることになり、早くから皇位継承の有力候補と 目されていたとされる。しかし敏達天皇の崩御(585年)時点ではまだ 幼く、その後まもなく(587年の蘇我・物部の戦いの前後とする説が あるが、時期は確定していない)早世したとみられている。

厩戸皇子うまやどのみこ(聖徳太子):有力候補でありながら、即位はしなかった

厩戸皇子(聖徳太子)は用明天皇の子で、母は 穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこ である。穴穂部間人皇女は欽明天皇の皇女で、その母(小姉君)も蘇我 稲目の娘にあたるため、厩戸皇子もまた蘇我の血を引いていた。有力な皇位継承 候補の一人とされながら、592年の時点では即位せず、593年、推古天皇に より皇太子とされ摂政の役割を担った。推古天皇の即位・厩戸皇子の 立太子の経緯そのものは推古天皇のコラムを参照。 厩戸皇子の子・山背大兄王は643年、蘇我入鹿の襲撃を受けて一族もろとも 自害し、上宮王家は滅亡する。その経緯は 別コラム(乙巳の変と大化の改新)を参照。

蜂子皇子はちのこのみこ:候補にすらなれなかった、暗殺された天皇の子

蜂子皇子(「はちこ」と読まれることも多いが、Wikipediaは「はちのこ」 が正しいとする)は崇峻天皇の第三皇子で、母は 小手子こてことされる。父・崇峻天皇が 蘇我馬子に暗殺されたため、身の危険を感じて出奔したと伝わり、聖徳 太子に匿われて宮中を脱出したとする話もある。その後、出羽国(現在の 山形県)に至り、出羽三山を開いたという伝承の主人公として知られる。 父が暗殺された当人であるという立場上、彼は皇位継承候補として名が 挙がることすらなかった。

第33代推古天皇554〜628第30代敏達天皇538〜585第29代欽明天皇509〜571第32代崇峻天皇553〜592第31代用明天皇540〜587押坂彦人大兄皇子聖徳太子574〜622竹田皇子蜂子皇子562〜641

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どの「血統」が優先されたのか

4人はいずれも欽明天皇の血を引く男系男子である。にもかかわらず 推古天皇(女性)が選ばれた経緯を見ると、単純に「男系男子という 原則が軽視された」とは言い切れない面がある。むしろ史料が示唆する のは、男系男子であることに加えて「蘇我氏の血を引くかどうか」と いう、もう一つの基準が競合していたという構図である。

  • 押坂彦人大兄皇子は、敏達天皇の第一皇子という最も正統な立場に ありながら、母が蘇我氏出身でないことが不利に働いたとされる。
  • 竹田皇子は、母が推古天皇(蘇我稲目の孫)であるため蘇我氏に とって理想的な候補だったが、早世した。
  • 結果として即位したのは、蘇我氏と縁戚関係にあり朝廷での発言力も あった推古天皇自身だった。

この時点で「男系男子でありさえすれば誰でもよい」という状態には なかった、という点は史料上確認できる事実である。一方で、これが 「男系という原則自体が軽視されていた」ことを意味するのか、 「男系の枠内で、別の政治的基準(蘇我の血)が働いていた」ことを 意味するのかは、評価の分かれるところであり、本コラムは判定しない。 この論点は、皇室典範改正2026のコラム の「男系男子」「万世一系」という前提そのものへの異論でも扱って いる。


まとめ

(1) 592年の崇峻天皇暗殺当時、確認できる男系男子の皇位継承候補は 押坂彦人大兄皇子・竹田皇子・厩戸皇子(聖徳太子)・蜂子皇子の 4人である。(2) 押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の第一皇子という最も 正統な立場にありながら、母が蘇我氏出身でないことが不利に働いた とされる。(3) 竹田皇子は母が推古天皇であり蘇我氏にとって最有力 候補だったが早世した。(4) 厩戸皇子(聖徳太子)は用明天皇の子で 蘇我の血を引く有力候補だったが即位せず、翌593年に推古天皇の皇太子・ 摂政となった。(5) 蜂子皇子は暗殺された崇峻天皇の子という立場上、 候補にすら挙がらず出奔したと伝わる。(6) 男系男子の候補が複数 いながら女性である推古天皇が選ばれたことは史料上の事実だが、 その背景には「蘇我氏の血を引くかどうか」という別の政治的基準が 働いていたとみられ、これが「男系男子という原則の軽視」を意味する かどうかの評価は分かれる。


出典

出典は百科事典・ニュース系解説サイトが中心で、学術論文ではない。 特に竹田皇子の没年、蜂子皇子の出奔・出羽三山開山伝承の史実性 については、一次資料・学術文献による確認を今後さらに進めていく。