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公開: 2026-07-11

コラム:「126代」は不変の数字ではない――南北朝正閏問題

version 0.1(草案)/ 2026-07-11

出典は文末にまとめている。学術論文ではなく百科事典・ニュース解説記事 レベルの出典が中心であり、一次資料での裏取りは今後の課題である (詳しい検証状況は docs/research/nanboku-cho.md 参照)。本コラムは評価を下さず、確認できた事実のみを述べる。


一つの国に、二人の天皇がいた60年

1336年から1392年までのおよそ60年間、日本には二人の天皇が同時に 存在していた時期がある。京都の朝廷(北朝)と、奈良・吉野の朝廷 (南朝)である。

きっかけは、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒して始めた「建武の新政」が わずか数年で崩壊したことだった(後醍醐天皇の后妃・皇子女、および 南朝各地への皇子の分散配置については 側室制度のコラムで詳しく扱う)。新政に 不満を持った武将・足利尊氏が 離反し、京都で新たな天皇(光明天皇)を擁立する。追われた後醍醐天皇は 三種の神器を持ったまま吉野に逃れ、「自分こそが正統な天皇である」と して独自の朝廷を開いた。こうして、それぞれが「自分が本物の天皇だ」 と主張する二つの朝廷が並び立つことになった。

統一の約束は、守られなかった

1392年、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲り渡し、 両朝はようやく一つになった(明徳の和約)。この和約には「これからは 南朝の血筋と北朝の血筋が交互に天皇を出す」という約束が含まれていた とされる。

しかし、この約束は実行されなかった。後小松天皇の次に即位したのは 南朝系の皇子ではなく、北朝系の称光天皇。称光天皇が跡継ぎのないまま 亡くなった1428年にも、皇位は再び北朝系(伏見宮家出身の後花園天皇)に 渡った。結局、南朝の血筋から天皇が即位することは二度となかった。

この結果、明徳の和約による統一以降、現在の皇室に至るまで、皇位は一貫して北朝の血筋で継承されている。約束を反故にされた南朝側のその後(後南朝の抵抗運動と、その血筋が史料上たどれなくなっていく経緯)は、別コラムで詳しく扱う。

「南朝が正しい」という考え方は、江戸時代の水戸から

では、南朝を正統とする考え方はどこから来たのか。その源流は、江戸時代 の水戸藩にある。徳川光圀が命じて編纂させた歴史書『大日本史』は、 三種の神器の所在などを根拠に南朝を正統な皇統とした。これは、幕府に 抵抗し続けた南朝への共感を、儒教的な忠義の理想と結びつける水戸学の 歴史観であり、後の尊王攘夷思想、そして明治維新の精神的な土台の一つに なったとされる(水戸学そのものについては 別コラムで詳しく扱う)。

興味深いのは、明治維新の直後、歴史学界では南朝・北朝のどちらか一方を 「正統」と決めつけず、両方を対等な朝廷として扱う「両朝並立」論の方が むしろ主流だったという点である。南朝正統論が国家の公式見解になるのは、 もう少し後のことになる。

新聞の投書から始まった、明治44年の政治問題

1911年(明治44年)1月、『読売新聞』に、当時の小学校の教科書が南朝と 北朝を対等に扱っていることを批判する投書が掲載された。この投書を きっかけに問題は一気に政治化する。同年2月、衆議院議員の藤沢元造が 政府に対し「どちらが正統かはっきりさせよ」と迫る質問主意書を提出。 世論と野党の圧力を受けた政府は教科書の改訂を約束し、教科書の執筆 責任者だった歴史学者・喜田貞吉は休職処分となった。

そして最終的に、明治天皇の裁可によって南朝を正統とすることが 正式に決定された。これに基づき、北朝の5人の天皇(光厳・光明・崇光・ 後光厳・後円融)は、公式の歴代天皇の記録から外されることになった。

今の扱いと、二つの逆説

現在、126代の歴代天皇に、この北朝5代は含まれていない。一方、南北朝を 統一した後小松天皇は、生まれは北朝でありながら、公式には南朝の 正統性を引き継いだ第100代天皇として歴代に数えられている。なお、 除外された北朝5代についても、天皇としての称号や陵墓の祭祀は、これまで 通り維持されている。

ここには、静かに眺めると不思議な構造が二重に隠れている。

一つ目は、「正統性の宣言」と「血統の連続性」がずれているという 逆説である。1911年の裁定は「1336〜1392年当時、正統だったのは南朝の 方だ」という宣言だが、実際にその後の皇位を継いできたのは、明徳の和約 以降ずっと北朝の血筋である。つまり公式の歴史認識と、実際の血のつながり が、綺麗には一致していない。

二つ目は、その裁定を下した明治天皇自身も、系譜の上では北朝の子孫だったという事実である。後花園天皇からの系譜をたどれば、明治天皇に つながる。したがってこの裁定は、明治天皇が自分自身の家系(北朝)を 正統だと宣言したものではなく、むしろ自分の直接の祖先ではない、ライバルの系統の方を歴史的に正統だったと認めた決定だったことになる。

「126代」という数字は、こうして近代のある時点に、政治的な経緯を 経て確定したものである。古代から一度も揺らいだことのない、自明の 数字ではない――そのこと自体が、この問題のもっとも重要なポイントだと 言えるだろう。

北朝5代は今、何と呼ばれているか

除外された北朝5代(光厳・光明・崇光・後光厳・後円融)は、現在は 公式126代には含まれないものの、無番号のまま放置されているわけでは ない。皇統譜上は「北一」〜「北五」、一般には**「北朝第◯代」**という、 北朝内だけで完結する独自の通し番号で呼ばれている(光厳天皇=北朝 第1代・初代、後円融天皇=北朝第5代)。

興味深いのは、この「北朝は数えない」という扱い自体が、1911年の 裁定より前は当たり前ではなかったという点である。明治より前に南朝 正統論を確立した水戸学の『大日本史』とは別に、南北朝時代に近い時期に 成立した史料の中には、北朝5代を含めてそのまま歴代天皇として数えて いたものもある。代表的な例が、後小松天皇(北朝出身、南北朝統一後の 第100代)の命により編纂されたとされる系譜書『本朝皇胤紹運録』で、 これによれば光厳天皇は第96代、光明天皇は第97代、崇光天皇は第98代、 後光厳天皇は第99代、後円融天皇は第100代とされていたという。

ただし、史料によってこの数え方は一致していない。

天皇現在の皇統譜本朝皇胤紹運録雲上明覧続神皇正統記
光厳北一96代96代96代
光明北二97代97代98代
崇光北三98代98代99代
後光厳北四99代99代100代
後円融北五100代100代101代

光明天皇以降、『続神皇正統記』だけ数字が1つずつ後ろにずれている。 これは南朝の後醍醐天皇の(建武の新政崩壊後の)在位をどう数えるか等、 史料ごとに前提が異なっていた可能性を示唆しているが、その違いの 具体的な理由までは今回の調査では確認できていない。

つまり、「北朝を歴代から除外し、公式126代とは別枠の『北朝第◯代』 として扱う」という現在の方式は、1911年の裁定によって初めて確立した ものであり、それ以前は北朝を含めて数えるという扱いも実際に行われて いた、ということになる。


出典

本コラムの元になった調査と詳しい出典一覧は docs/research/nanboku-cho.md を参照。 主な出典:

推奨される追加確認事項は docs/research/nanboku-cho.md §7 を参照。