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公開: 2026-07-13

コラム:仏教を受け入れた天皇たち――聖徳太子・聖武天皇と、もう一つの「国教」

version 0.1(草案)/ 2026-07-13

出典は文末にまとめている。学術論文ではなく百科事典・出版社解説記事 レベルの出典が中心であり、一次資料(『日本書紀』原文等)での裏取りは 今後の課題である。本コラムは評価を下さず、確認できた事実のみを 述べる。国家神道のコラムは「1000年続いた神仏 習合の終わり」(1868年の神仏分離令)から始まったが、本コラムはその 1000年の始まり――仏教がどのように日本に入り、どの天皇たちが それを受け入れ、いかにして神道と並ぶ「もう一つの国教」的な位置を 占めるに至ったか――を扱う。


552年(538年説も)、仏教公伝

『日本書紀』によれば、552年(欽明天皇13年)、百済の聖王から 第29代・欽明天皇のもとへ、釈迦仏の金銅像と経典が贈られた。これが 仏教の公式な伝来とされる(ただし別の史料に基づき538年とする説も 有力である)。

崇仏論争と丁未の乱(587年)

仏教を受け入れるべきかどうかをめぐり、朝廷内の意見は割れた。大臣・ 蘇我稲目は、周辺諸国が既に仏教を受け入れていることを理由に 信仰すべきだと進言し、大連・物部尾輿は、従来の神々への信仰こそ 日本の進むべき道だと主張したと伝えられる。

この対立は次の世代にも持ち越され、587年、崇仏派の蘇我馬子と 排仏派の物部守屋が武力衝突するに至った(丁未の乱)。馬子が 勝利し、これを契機に仏教は日本国内で本格的に広まっていったとされる。 敗れた物部氏側の独自の伝承が記紀から十分に残らなかった経緯は、 『先代旧事本紀』のコラムで扱っている。

聖徳太子(厩戸皇子)による保護

丁未の乱の後、仏教を本格的に保護・普及させた人物として知られるのが、 第33代・推古天皇のもとで摂政を務めたとされる聖徳太子(厩戸 皇子)である。法隆寺の建立、『三経義疏』(仏典の注釈書)の編纂、 そして十七条憲法第2条「篤く三宝を敬え」(三宝=仏・法・僧)という 条文が、その事績として伝えられている。なお聖徳太子自身は天皇には 即位しておらず、公式代数を持たない。

ただし、この「聖徳太子」像そのものにも学術的な論争がある。歴史学者 ・大山誠一は1999年、聖徳太子の事績の大半は『日本書紀』編纂時に 藤原不比等らによって創作された虚構だとする「聖徳太子虚構説」を 提唱した。大山は、推古朝に厩戸という名の皇子は実在したが、当時は 皇太子・摂政という制度自体が存在せず、彼自身は政治の中心人物では なかったと主張する。これに対し歴史学者・遠山美都男は、『日本書紀』 の聖徳太子像に後世の粉飾が加えられていること自体は大山以前から 指摘されていたとしつつ、大山説は実在の厩戸皇子を過小評価している と批判し、「日本書紀の聖徳太子は架空の人物だったかもしれないが、 厩戸皇子自身は実在の、しかも有力な王族だった」と論じている。本 コラムはこの論争の当否を判定しない。

聖武天皇と「国家仏教」の完成

仏教が国家の制度として最大規模で組み込まれたのは、第45代・ 聖武天皇(在位724〜749年)の治世である。度重なる飢饉・疫病の 流行や政情不安を受け、聖武天皇は仏教の力によって国を鎮め守る 「鎮護国家」思想のもと、大規模な仏教政策を進めた。

  • 741年(天平13年): 国分寺・国分尼寺建立の詔。全国の国ごとに、 金光明四天王を祀る国分寺と、法華経の読誦を行う国分尼寺を建てる よう命じた。
  • 743年(天平15年): 東大寺盧舎那仏(大仏)造立の詔。当初は紫香楽宮 で着手されたが、都が平城京に戻った後、東大寺として新たに造営 された。
  • 752年(天平勝宝4年): 大仏開眼供養が行われた。

中央の象徴である大仏と、地方の拠点である国分寺・国分尼寺を組み合わ せ、祈りの枠組みを全国に広げるという、包括的な仏教政策だったと 評価されている。

神仏習合という「もう一つの国教」

こうして、6世紀の公伝から聖武天皇の代までの約200年間で、仏教は 朝廷・国家の保護のもとで確立された。国家神道のコラム で見たとおり、その後の日本では、神道と仏教が明確に区別されず一体の ものとして信仰される「神仏習合」の状態が、1868年の神仏分離令まで 1000年以上続くことになる。


まとめ

(1) 仏教は552年(538年説も)、百済から第29代・欽明天皇のもとへ公式 に伝えられたとされる。(2) 受容をめぐり蘇我氏(崇仏派)と物部氏 (排仏派)が対立し、587年の丁未の乱で崇仏派の蘇我馬子が勝利した ことで、仏教は本格的に広まった。(3) 聖徳太子(厩戸皇子)は仏教を 保護した人物として知られるが、その事績・実在性については大山誠一 の「虚構説」と、それを批判する遠山美都男らの間で学術的な論争が ある。(4) 第45代・聖武天皇は、国分寺・国分尼寺(741年)と東大寺 大仏(743年発願、752年開眼供養)を柱とする「鎮護国家」思想に基づく 国家仏教政策を進めた。(5) こうして確立された神道と仏教の共存(神仏 習合)は、1868年の神仏分離令まで1000年以上続いた。


出典

出典は百科事典・大学や自治体の解説ページが中心で、学術論文ではない。 特に大山誠一・遠山美都男それぞれの原著論文、丁未の乱の一次資料 (『日本書紀』該当箇所)による確認は、今後さらに進めていく。