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公開: 2026-07-13

コラム:『先代旧事本紀』――聖徳太子ではなく、水戸光圀が見破った偽書

version 0.1(草案)/ 2026-07-13

出典は文末にまとめている。学術論文ではなく百科事典・出版社解説記事 レベルの出典が中心であり、一次資料での裏取りは今後の課題である。 本コラムは評価を下さず、確認できた事実のみを述べる。『古事記』と 『日本書紀』のコラムで見た記紀に続き、 第三の古代史書とされてきた『先代旧事本紀』を扱う。この書物が 「偽書」と見抜かれた経緯は、水戸学のコラムで 扱った徳川光圀、諡号・追号のコラムで見た 「漢風諡号」という制度の両方とつながっている。


序文の主張:聖徳太子・蘇我馬子が編纂した史書

『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ、旧事紀とも)は全10巻から なる史書で、その序文は、推古天皇の命により聖徳太子と蘇我馬子 が編纂した、と主張している。これが事実なら、7世紀初頭に成立した ことになり、712年の『古事記』・720年の『日本書紀』よりも古い、 最古の史書ということになる。

中世(古代末〜中世)にかけて、この書物は神道関係の学問の中で高く 評価され、記紀と並ぶ権威ある史書として扱われた時期もあったとされる。

徳川光圀による偽書判定

しかし近世に入り、この序文の主張は覆される。水戸学のコラム で見た、『大日本史』編纂を命じた徳川光圀は、『先代旧事本紀』の 記述を検討し、聖徳太子・蘇我馬子撰という序文の主張を後世の偽作だと 判定した。その決定的な根拠の一つが、この書物が歴代天皇を呼ぶのに 「漢風諡号」(神武・持統など、漢字2字で贈られる格式高い諡号)を 使っていることだった。

諡号・追号のコラムで見たとおり、漢風諡号は中国 由来の制度で、生前の事績を称える形で漢字2字が贈られる呼び方である。 神武天皇から第41代・持統天皇、および第43代・元明天皇、第44代・ 元正天皇までの漢風諡号は、学者・淡海三船(おうみのみふね)に よって、天平宝字6〜8年(762〜764年)ごろに一括して選定されたと みられている。ところが聖徳太子は622年に没しており、漢風諡号が 存在するようになるより140年ほど前の人物である。聖徳太子が 本当に編纂したのなら、まだ存在しないはずの呼び名を使えるはずが ない。加えて、『先代旧事本紀』には『日本書紀』からの引用とみられる 文もあり、これも720年より前には成立し得ないことを示している。

現在の学術的な理解では、『先代旧事本紀』の実際の成立は、延喜年間 (901〜923年)より前の平安時代初期(9世紀ごろ)と推定されており、 撰者は不明である。

それでも価値がある部分:物部氏・尾張氏の独自伝承

『先代旧事本紀』の内容は、大部分が『古事記』『日本書紀』などから の引用で占められており、独自の記事は少ない。しかし全てが無価値な わけではない。**巻五「天孫本紀」**と、後世の加筆部分を除いた **巻十「国造本紀」**は、物部氏・尾張氏の家伝に基づくとみられ、 記紀からは消えてしまった氏族伝承を伝える貴重な史料とされている。

物部氏は、6世紀の仏教導入をめぐる政争(587年の丁未の乱)で蘇我氏に 敗れた氏族である(仏教伝来のコラム参照)。 その物部氏自身の伝承が、『古事記』『日本書紀』という勝者側(蘇我氏に 連なる勢力)が編纂した史書には十分に残らなかった、という背景がある とみられる。


まとめ

(1) 『先代旧事本紀』は、序文で聖徳太子・蘇我馬子の編纂と主張する 史書だが、これは後世の偽作である。(2) 徳川光圀は、この書物が 「漢風諡号」という、聖徳太子の没後(622年)140年ほど経ってから 淡海三船が制定した(762〜764年ごろ)呼び名を使っていることなどを 根拠に、偽書と判定した。(3) 実際の成立は、平安時代初期(901〜923年 より前)と推定され、撰者は不明である。(4) 中世までは記紀と並ぶ 権威ある史書として扱われたが、近世の偽書説によって評価は下がった。 (5) それでも、巻五「天孫本紀」・巻十「国造本紀」は、物部氏・尾張氏 独自の氏族伝承を伝える史料として、今も価値があるとされている。


出典

出典は百科事典・個人ブログ・出版社解説記事が中心で、学術論文では ない。特に徳川光圀による偽書判定の一次資料(『大日本史』該当箇所 の原文)、淡海三船による漢風諡号選定の正確な時期・経緯については、 一次資料・学術文献による確認を今後さらに進めていく。