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公開: 2026-07-13

コラム:「天皇制が部落差別を生んだ」のか――被差別身分の起源と、割れる運動内の立場

version 0.1(草案)/ 2026-07-13

出典は文末にまとめている。学術論文ではなく百科事典・出版社解説記事・ 運動団体の公式資料レベルの出典が中心であり、一次資料での裏取りは 今後の課題である。本コラムは評価を下さず、確認できた事実のみを 述べる。「天皇制」という言葉のコラム・「天皇の赤子」 「非国民」のコラムに続き、「天皇制」という言葉と 被差別部落の起源をめぐる議論を、主張者を特定して整理する。この 論点は被差別部落の解放運動の内部でも見解が分かれており、本コラムは どちらが正しいかを判定しない。なお、歴史上の被差別身分を指す当時の 呼称そのものは、現在は差別語とされているため、本コラムでは用いず 「被差別身分」「被差別民」と表記する。


被差別身分の起源:江戸幕府より古い

こうした被差別身分は、平安時代までに始まったとする見方があり、 鎌倉時代までには奈良・京都に存在が確認されるとされる。仏教・神道の 「穢れ(ケガレ)」観念(死・血・殺生などを不浄とみなす考え方)に 関連する語源を持つとする説がある一方、古代の被征服民を起源とする説も ある。つまり、差別そのものの思想的な起源は、江戸幕府の成立 (1603年)よりもはるかに古い、というのが学術的な共通理解である。

江戸幕府による身分の固定化

一方、この差別的な身分を、法的・行政的な「制度」として固定した のは、確かに江戸幕府(および豊臣政権期)の政策である。歴史学者・ 原田伴彦は、豊臣政権から徳川政権初期(天正〜寛永期、おおむね1573〜 1644年)にかけて、被差別民に対する新たな身分制度が形成されていった と論じている。豊臣秀吉の太閤検地の際に検地帳へ特定の被差別身分が 記載された時点、あるいは江戸初期に宗門人別帳が全国的に整備された 時点(17世紀半ば)を、部落の成立とみる見方がある。幕藩体制を維持 するため、既存の偏見を利用して身分制度が固定・強化されたとされる。

1871年、「解放令」による身分の廃止

明治4年8月28日(1871年10月12日)、明治政府は太政官布告(布告第449号) によって、被差別身分を指す旧来の呼称を廃止し、身分・職業とも平民と 同様にすると布告した(解放令、賤称廃止令とも呼ばれる)。この 布告には「等」の文言があり、夙(しゅく)・烟亡(おんぼう)・巫(みこ) といった他の被差別身分も対象に含まれたとされる。財政上、被差別 身分の宅地に免税地が多く、近代的な課税体制を整えるため身分制度 そのものを廃止する必要があった、という行政上の背景も指摘されている。

しかし、法的な身分の廃止は、社会的な差別の解消を意味しなかった。 後述の水平社宣言は、解放令から約50年を経てもなお、差別が解消されて いないことを訴えている。

全国水平社(1922年):当初は徳川幕府の政策を問題視

被差別部落の当事者による全国組織「全国水平社」は、1922年 (大正11年)3月3日、京都・岡崎公会堂で創立され、日本初の人権宣言と 評される「水平社宣言」が読み上げられた。この宣言は「人の世に 熱あれ、人間に光あれ」という言葉で結ばれることで知られる。

創立時の趣旨説明では、徳川幕府による厳格な身分的社会政策が、明治の 解放令の後も被差別部落への社会的な蔑視の感情として残り、恐ろしい 拘束力を発揮し続けていると訴えている。この段階では、天皇制その ものへの批判よりも、徳川幕府の政策とその後の社会的惰性が、主な 問題として語られていた。

1933年、「天皇制打倒」への転換

ところが、1933年(昭和8年)の全国水平社第11回大会では、「天皇制の 打倒なくして部落民の解放はありえない」という趣旨が述べられ、 天皇・華族・士族といった上層身分の存在自体が、部落差別という 対蹠的な構造を生み出しているという主張がなされた。

この転換の時期は、「天皇制」という言葉のコラムで 見た、コミンテルンの32年テーゼ(1932年、「天皇制の廃止」を日本共産 党の方針として明記)とほぼ同じ時期にあたる。当時の水平社の一部が、 共産主義運動と連携・接近する中で、階級闘争的な理論枠組みを取り 込んでいった可能性がうかがえるが、この因果関係を直接示す一次資料 には、今回到達できていない。

現代:運動内部でも割れる評価――灘本・師岡論争

「天皇制と部落差別」の関係をめぐる評価は、現在も一致していない。 2004年前後、当時京都部落問題研究センター所長だった灘本昌久は、 「部落解放に反天皇は無用」とする論考を発表し、部落解放と反天皇制 を結びつける必要性に疑問を呈した。これに対し、元京都部落史研究所 所長の師岡佑行は「反天皇制は部落解放の核心である――灘本昌久 『部落解放に反天皇は無用』を批判する」と題する反論を発表した。

この論争は深刻な対立に発展した。京都部落問題研究センターは、天皇制 を差別の元凶として位置づける部落解放同盟京都府連合会と協力関係に あったため、同府連は灘本に辞任を要求し、応じなければセンターを 封鎖すると通告したとされる。灘本は2004年9月末をもって所長職を 辞任した。

部落解放同盟自身の綱領は、「家」思想が伝統的な浄穢思想(ケガレ観)や 貴賤思想(血統主義的身分序列観)を内包し、近代の優生思想・衛生思想 などと複合化しながら、被差別部落の排除を社会的・制度的に当然視 させてきたと説明している。


まとめ

(1) これらの被差別身分の思想的な起源(ケガレ観念)は、江戸幕府成立 より古く、平安〜鎌倉期にさかのぼるとされる。(2) しかし、これを 法的・行政的な身分制度として固定したのは、豊臣政権〜江戸幕府初期の 政策である。(3) 1871年の解放令は身分を法的には廃止したが、社会的な 差別は解消されなかった。(4) 1922年創立の全国水平社は、当初は徳川 幕府の政策とその後の社会的惰性を主な問題としていたが、1933年の 大会では「天皇制打倒」を明確に掲げるようになった。この転換は、 32年テーゼ(1932年)とほぼ同時期である。(5) 「天皇制と部落差別」の 関係については、運動・研究の内部でも評価が割れており、2004年には 灘本昌久と師岡佑行の間で公然とした論争が起き、灘本は所属していた 研究センターの所長職を辞任する事態に至った。(6) 制度としての被 差別身分の固定化は幕府の政策だが、その根底にあるケガレ観念には、 皇室の祭祀とも関わる古い宗教的起源がある――両者は別の層の問題で あり、どちらか一方だけで説明することはできない。


出典

出典は百科事典・運動団体の公式資料・関係者による記録が中心で、 学術論文ではない。特に原田伴彦の原著、1933年全国水平社大会の議事 記録そのもの、灘本昌久・師岡佑行それぞれの原論文については、 一次資料・学術文献による確認を今後さらに進めていく。