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公開: 2026-07-12

コラム:明治維新はなぜあれほど急進的だったのか――国学・水戸学・外圧・武器商人

version 0.1(草案)/ 2026-07-12

出典は文末にまとめている。学術論文ではなく百科事典・公的機関(国立公文 書館等)・出版社解説記事・ニュース記事レベルの出典が中心であり、一次 資料での裏取りは今後の課題である。本コラムは評価を下さず、確認できた 事実のみを述べる。国学のコラム・水戸学のコラム・ 天照大神のコラム・国家神道のコラム・ 神武天皇のコラムがそれぞれ個別に扱ってきた論点を、 「明治維新という一つの結節点」として串刺しにする。


国学と水戸学、二つの潮流の合流

国学のコラムで見たとおり、本居宣長(1730〜1801年)は 『古事記伝』(1764年起稿、1798年脱稿)で儒仏的な解釈(「漢意」)を排し、 天照大御神の子孫による統治の連続性を強調した。これにより『古事記』が 独自の史書として再評価され、神話的な皇統連続性のイメージが確立した とされる。

これとは別に、水戸藩では独自の学問潮流が育っていた。水戸藩士・会沢 正志斎(1782〜1863年)は、1824年の大津浜事件(イギリス捕鯨船員が 常陸国大津浜に上陸した事件)を機に、1825年(文政8年)、幕府の異国船 打払令発布と前後して『新論』を著す。上下2巻・7篇(国体上中下・形勢・ 虜情・守禦・長計)からなるこの書は、天皇への忠を軸とする「国体」論と、 富国強兵・海防による尊王攘夷論を体系化したもので、発禁後も門人による 書写で広まり、安政4年(1857年)に正式出版された。水戸学の始祖・藤田 幽谷の子である藤田東湖(1806〜1855年)は会沢と兄弟弟子にあたり、 水戸藩主・徳川斉昭(1800〜1860年、在任1829〜1844年)が1841年に設立 した藩校・弘道館の理念書『弘道館記述義』を起草した。東湖は本居宣長の 国学を取り入れ、尊王を絶対化したとされる。

この国学と水戸学の合流を示す具体例として、吉田松陰が水戸を訪ね 会沢に師事し、獄中手記に「余深ク水府の学ニ服ス」と記して、自らの 松下村塾で水戸学を教材に用いたという逸話が伝わる。久留米の真木和泉も 会沢のもとを訪ねている。1860年、水戸浪士による大老・井伊直弼暗殺 (桜田門外の変)は、この水戸学の思想が実際の政治的暴力として現れた 例とされる。

黒船来航、不平等条約、そして富国強兵

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、ペリー率いる黒船4隻が浦賀に来航する。 翌1854年3月31日、日米和親条約が締結され下田・箱館が開港された。さらに 1858年7月29日(安政5年6月19日)、大老・井伊直弼は朝廷の勅許を得ない まま日米修好通商条約に調印し、同様の条約がオランダ・ロシア・イギリス・ フランスとも結ばれた(安政五カ国条約)。これらの条約が「不平等」と される根拠は、相手国に領事裁判権(治外法権)を認めた点、および関税を 自国で自由に決められない協定関税制(1866年の改税約書で輸入税が一律 5%に固定され、関税自主権を実質的に失った)にある。

同時代、清がアヘン戦争(1840〜42年)・アロー戦争(1856〜60年)を経て 列強に侵食されていった情報は、オランダ商館長による報告書(別段風説書) を通じて幕府に伝わっており、清の情勢を伝える魏源『海国図志』(1851年 伝来)は佐久間象山・吉田松陰らに読まれたことが確認されている。

この危機感を背景に掲げられたのが「富国強兵」というスローガンで ある。この語自体は中国古典に由来し江戸中期にはすでに使われていたが、 幕末には島津斉彬・横井小楠・岩倉具視らが用いた。実際の政策としては、 徴兵令(1873年1月10日太政官布告、満20歳男子を対象)と地租改正 (1873年7月28日太政官布告、地価の3%を金納、1877年に2.5%へ引下げ) が代表例である。

武器商人たちの暗躍――グラバー/ジャーディン・マセソン商会と、ロッシュ/フランス軍事顧問団

明治維新の急進性を語るうえで見落とされがちなのが、外国勢力が倒幕派・ 佐幕派それぞれに武器・軍事支援を行っていたという事実である。

長崎のトーマス・ブレーク・グラバー(1838〜1911年)は1859年に来日し、 イギリスのジャーディン・マセソン商会長崎代理店の補助員を経て、 1861年に代理権を継承して独立、以後も同商会の長崎代理店を兼ねた。 1865年、薩摩藩は艦船代金38万ドルのうち20万ドルをグラバー宛に支払った とされる。長州藩は、坂本龍馬が1865年5月に長崎で設立した亀山社中を 介し、薩摩藩名義でグラバー商会から武器を購入する「三角貿易」の構造を 築いた。慶応元年(1865年)8月26日、三田尻・下関に陸揚げされたのは ミニエー銃4,300挺・ゲベール銃3,000挺で、交渉には伊藤俊輔(博文)・ 井上馨・亀山社中の近藤長次郎が関わったとされる。この新式銃は第二次 長州征伐で威力を発揮したとされ、また長州藩が薩摩藩名義でグラバー商会 から購入した中古艦「ユニオン号」(桜島丸/乙丑丸、1865年、5万両)と あわせ、こうした武器・艦船取引が1866年1月の薩長同盟成立の一因になった とされる。なお「薩長の武器・艦船の7割近くをグラバーが調達した」という 説も一般向け記事に見られるが、一次資料による裏付けは確認できず、 誇張された俗説の可能性がある。

一方、幕府側にはフランスが接近した。フランス公使レオン・ロッシュは 1864年12月の幕府からの製鉄所・造船所建設斡旋依頼を契機に幕府寄りの 姿勢を強め、横須賀製鉄所建設を主導する。1865年、外国奉行・柴田剛中が 渡仏してナポレオン3世の承認を得たことで、軍事顧問団の派遣が決定した。 1866年11月19日にマルセイユを出航した顧問団は、シャルル・シャノワーヌ 参謀大尉を団長、ジュール・ブリュネを副隊長格とする計15名(後19名) で、1867年1月12日に横浜到着、幕府伝習隊を横浜大田陣屋で1年以上訓練 した。しかし1868年の大政奉還・戊辰戦争勃発により、同年9月14日に解雇 され、11月17日にフランス政府が召還命令を出す。ブリュネはこの命令に 従わず、部下カズヌーヴとともに10月4日、榎本武揚率いる旧幕府艦隊の 開陽丸に乗り込んで離脱し、蝦夷共和国側を支援した。

イギリス公使ハリー・パークスは、鳥羽・伏見の戦い(1868年1月)後の 混乱を経て、新政府が1868年2月14日に列国へ要請した局外中立を主唱し、 英・米・仏・伊・蘭・普6か国が同年2月18日に局外中立を布告した。これに より旧幕府軍は購入予定だった甲鉄艦ストーン・ウォール号を入手できず、 新政府側が有利になったとされる。ただし局外中立の宣言後も、グラバーや プロイセンのスネル兄弟ら民間武器商人は新政府・旧幕府双方に武器を売却 し続け、新潟港ではイタリア・プロイセンの商人が新政府の要請を無視して 奥羽越列藩同盟へ武器を売却したことも記録されており、列強政府の公式 方針(局外中立)と民間貿易の実態が必ずしも一致していなかったことが わかる。

討幕の達成と「万世一系」の法制化

1868年1月3日(慶応3年12月9日)の王政復古の大号令で幕府廃止・三職設置 が宣言され、戊辰戦争(1868年1月〜1869年5月)を経て新政府が全国を掌握 する。1871年(明治4年)7月14日には廃藩置県が断行され、薩長土の御親兵 を背景に、藩から府県への中央集権化が実現した。

この過程で並行して進んだのが、天照大神のコラム で扱った「万世一系」概念の法制化である。「万世一系」という語自体は 1867年10月、岩倉具視の「王政復古議」にある「皇家は連綿として万世一系 礼楽征伐朝廷より出で候」が初出とされる。この語は、1889年2月11日発布の 大日本帝国憲法第1条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」として成文 化され、同年制定の(旧)皇室典範 第1条「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」により、 皇位継承は男系男子に限定された。伊藤 博文『憲法義解』は「万世一系」を過去の史実にとどまらず将来にわたる 皇統継続の規範として位置づけたと解説される。国学が神話を読み解いて 描き出した「連続性」のイメージと、水戸学が体系化した「国体」論・尊王 論、そして討幕という実力行使の結果が、明治国家の基本法という形で 一つに結晶したことになる。神武天皇のコラムで扱った 紀元節(1873年制定)の成立も、この同じ時期の出来事である。

明治維新は「革命」か「復古」か――歴史学上の評価の対立

明治維新をどう性格づけるかについては、歴史学者の間で評価が分かれて いる。本コラムはどちらが正しいか判定しない。

カナダの外交官・歴史家E・H・ノーマン(Egerton Herbert Norman、 1909〜1957年)は、著書『日本における近代国家の成立』(Japan's Emergence as a Modern State、1940年)で、明治国家を「絶対主義国家」 として性格づけ、下級武士による中央権力掌握過程を重視した。

日本のマルクス主義史学では、講座派(『日本資本主義発達史講座』 1932〜33年、野呂栄太郎・山田盛太郎ら)が明治維新後の日本を「半封建的 絶対主義天皇制」と規定し二段階革命論を主張したのに対し、労農派(雑誌 『労農』、山川均・向坂逸郎ら)は維新を「不徹底なブルジョア革命」と みなし、すでに近代資本主義国家・ブルジョワ君主制と規定して直接社会 主義革命が可能だと主張した(日本資本主義論争。1936年のコム・アカデ ミー事件、1937〜38年の人民戦線事件で強制的に終結)。戦後歴史学では 遠山茂樹(1914〜2011年)が『明治維新』(1951年、岩波書店)で天保 改革から西南戦争までを「絶対主義天皇制確立期」として体系的に叙述し、 講座派史観を継承した。一方、石井孝(1909〜1996年)は『幕末貿易史 の研究』(1944年)等で実証史学の立場からマルクス主義的な図式を批判し、 田中彰(1928〜2011年)は『明治維新政治史研究』(1963年)等で 明治維新を「アジアの近代革命」の一つと位置づけた。

より最近では、明治大学教授・落合弘樹が、フランス革命(死者約200万 人)と比較し、戊辰戦争(約1万2千人)・西南戦争(約1万5千人)という 死者数の少なさ、武士という特権階級自身が既得権を自発的に解体した点を 挙げ、世界史的に特異な変革方式だったと論じている。東京大学の三谷博 は『明治維新を考える』(岩波現代文庫)で、英語のRestoration(王政復古) という訳語は妥当だが、身分制度をほぼ全廃した大変革である点でRevolution にも近く、しかし「下から」ではなく支配身分自身が「上から」君主制を 再強化した点でRevolutionとも言い切れないとして、"Regeneration"という 訳語を独自に提案している。

今も続く「余波」

明治期に確定した制度・イデオロギーをめぐる論争は、2026年現在も続いて いる。

  • 建国記念の日論争: 神武天皇のコラムで扱った とおり、1873年に紀元節として制定、戦後廃止、1966年に「建国記念の日」 として復活した。2025年2月11日には「2・11集会実行委員会」などによる 反対集会が東京で開かれている(約130人参加)。
  • 皇位継承の男系男子限定をめぐる論争: 側室制度が歴代天皇の 子女数にどう影響してきたかの数量的な整理は 側室制度のコラム、2026年6月末以降の 皇室典範改正案の経緯・世論調査・賛否の詳細は 2026年皇室典範改正のコラムで 扱う。2021年12月22日、皇位継承に関する有識者会議報告書が決定。 2026年3月16日には参院予算委員会で 高市早苗首相が「皇室典範は男系男子継承を規定しており(女性天皇は) 認められていない」と答弁した。2026年6月30日、政府は女性皇族の婚姻後 の身分保持と旧宮家男系男子の養子縁組を柱とする皇室典範改正案を決定し 同日国会に提出、2026年6月22日には野田佳彦氏が麻生太郎氏の旧宮家養子 案推進を「藤原道長ではないか」と評する発言をしている。
  • 神社本庁と個別神社の離脱問題: 国家神道のコラム で扱った戦後の神社本庁体制をめぐり、鶴岡八幡宮(鎌倉)が2024年3月に 離脱手続きを開始し、同年6月に神奈川県の規則変更認可で正式に離脱した。 吉田茂穂宮司は「内部からの正常化を断念せざるを得ない」と説明し、 背景には総長人事をめぐる内紛があったとされる。2024年10月2日、最高裁は 神社本庁側勝訴を確定させている。過去には富岡八幡宮(2017年)・金刀比羅宮 (2020年)の離脱例もある。
  • 「明治天皇すり替え説」: 睦仁親王が維新の混乱期に別人と入れ替わった とするインターネット上の言説が、ネット記事・動画で断続的に話題になり 続けている。主張と反論の詳しい整理は 別コラムを参照。

まとめ

(1) 国学(本居宣長)が文献学的に確立した神話的な皇統連続性のイメージと、 水戸学(会沢正志斎『新論』1825年、藤田東湖)が体系化した「国体」論・ 尊王攘夷論という二つの思想潮流が、吉田松陰らを介して合流し、討幕運動 の思想的基盤になった。(2) 1853年のペリー来航と1858年の不平等条約締結、 清が列強に侵食された前例への危機感が、富国強兵という国家目標の緊急性 を高めた。(3) 倒幕側にはイギリス系のジャーディン・マセソン商会(長崎の トーマス・グラバー)が薩摩・長州へ武器・艦船を供給し、佐幕側にはフラン ス公使レオン・ロッシュが軍事顧問団(ジュール・ブリュネら)を派遣する など、外国勢力が国内対立の両陣営をそれぞれ支援する構図があった。(4) 討幕達成後、1889年の大日本帝国憲法と(旧)皇室典範により、「万世一系」 の理念と男系男子限定の皇位継承が法制度として確定した。(5) 明治維新の 性格づけ(絶対主義国家か、不徹底なブルジョア革命か、世界的に特異な 無血に近い変革か)については歴史学者の間で評価が分かれ、本コラムは 判定しない。(6) 建国記念の日論争、皇位継承をめぐる議論、神社本庁からの 個別神社離脱など、明治期に確定した制度・イデオロギーに由来する論争は 2026年現在も続いている。

国学・水戸学それぞれの詳細は国学のコラム・ 水戸学のコラム、万世一系概念の成立過程は 天照大神のコラム、戦後の国家神道解体と神社本庁 体制は国家神道のコラム、紀元節・建国記念の日の詳細は 神武天皇のコラムを参照。


出典

出典は百科事典・公的機関の解説ページ・出版社解説記事・ニュース記事が 中心で、学術論文ではない。特に「グラバーが薩長の武器の大半を供給した」 という言説の定量的な裏付け、E・H・ノーマン以下の各歴史学者の原著論文、 「清の轍を踏むな」という危機感が当時の一次史料にどう表現されていたか については、一次資料・学術文献による確認を今後さらに進めていく。